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第7回、本文1 [「『証巻』を読む」その64]

第7回 作にあらず非作にあらず

(1)  第7回、本文1

前回は還相の菩薩の行についての文を読んできました。それが終わり、最後に「観行の体相(観察する浄土・仏・菩薩の荘厳)は竟(おわ)りぬ」と締めくくられていました。それにつづく文です。

以下(いげ)はこれ、()()『浄土論』の「長行)のなかの第四重(第章)なり。名づけて浄入(じょうにゅう)(がん)(しん)とす。浄入願心とは、〈また(さき)に観察荘厳仏土功徳成就と荘厳仏功徳成就と荘厳菩薩功徳成就とを説きつ。この三種の成就は願心の荘厳したまへるなりと(この三種の功徳が成就したのは法蔵菩薩の願心のなすところであると)、知るべし〉(浄土論)といへり。応知(知るべし)とは、この三種の荘厳成就は、もと四十八願等の清浄の願心の荘厳せるところなるによりて、因浄なるがゆゑに果浄なり。因なくして他の因のあるにはあらずと知るべしとなり。

『論註』の構成について一言しておきますと、上巻で『浄土論』の「願生偈」を、下巻で「長行(願生偈の解説)」を注釈しています。そして下巻の内容は「長行」の論述に沿いながら、1.願偈大意、2.起観生信(きかんしょうしん)、3.観行体相、4.浄入願心、5.善巧摂化(ぜんぎょうせっけ)、6.離菩提障、7.順菩提門、8.名義摂対(みょうぎせったい)、9.願事成就、10.利行満足という10章構成となっています。本文の冒頭に「以下はこれ、解義のなかの第四重なり」とありますのは、ここまでで第3章の観行体相が終わり、これから第4章の浄入願心に入るということです。親鸞はこのあと最後の利行満足に至るまで、途中を省略することなく、すべて引きますが、これらはみな還相の菩薩のありように関係すると見ているからです。

さて「浄入願心」というのは、浄土と仏と菩薩の荘厳はすべて法蔵菩薩の清浄な願心によりもたらされたものであるということで、因である法蔵菩薩の願心が清浄であるから果としての浄土・仏・菩薩はみな清浄であると説かれます。「はじめに法蔵菩薩の誓願ありき」ということです。「正信偈」も「帰命無量寿如来、南無不可思議光」につづいて、「法蔵菩薩因位時、在世自在王仏所(法蔵菩薩の因位の時、世自在王仏の所にましまして)」とはじまりますように、ここに浄土の教えの要があると言えます。浄土の教えが「はじめに阿弥陀如来ありき」ではなく、「はじめに法蔵菩薩ありき」と説かれるのは何故か、ここに思いを致したいと思います。


タグ:親鸞を読む
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