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竪か横か [「信巻を読む(2)」その33]

(9)竪か横か

このように竪超・竪出・横超・横出と四つに分けられますが、竪超は「超(頓)」とは言うものの、実際には天台や真言などでも長い修行が前提とされますから、自力聖道門はみな漸(出)というべきでしょう。そして横出は「横(他力)」とは言うものの、諸善万行や自力念仏により往生をめざすのですから、実際には自力(竪)と言わなければなりません。このように自力(竪)は漸で、他力(横)は頓ですから、四重とは言っても、結局のところ竪の自力の立場か横の他力の立場かの二者になります。竪すなわち自力か、それとも横すなわち他力か、すべてはここに収斂します。そこでこの原点に戻り、真実の信心は自力=竪ではなく他力=横であることを確かめたいと思います。

自力の意味にはあいまいなところは何もありません、みずからの力で何かを得ようとすることです。しかし他力ということばにはそのなかに複数の意味が積み重なっていて、そこからさまざまな混乱が生まれてきます。普通の意味(日常語としての意味)では「他の力をかりて」ということです。「何ごとも他力ではダメ、自力でやらなきゃ」というのはそういう意味です。しかし浄土の教えにおいては、他力ということばには特有の意味が込められていて、親鸞はそれをこう言っていました、「他力といふは如来の本願力なり」(「行巻」)と。このように、他力とは如来が衆生を救う力のことで、浄土の教えにおいて他力ということばが出てきたときにはその主語はあくまでも如来であり、決してわれらではありません。

かくして自力の立場と他力の立場は、「みずからの力で救いを得ることができる」か、それとも「救いは如来の力による」かの違いであるということになります。

その本題に入る前に予想される疑問に答えておきたいと思います。一つはそもそも「救い」とは何かということです。宗教的な意味での救いとは、生きることの「安心(あんじん)」と言えます。仏教の「あんじん」は普通の「あんしん」とは異なります。「あんしん」は不安を引き起こす状況が取り除かれたときに生まれるもの(状況に左右されるもの)ですが、「あんじん」はどんな状況に置かれてもあるもの(状況に左右されないもの)です。たとえば重い病が快方に向かうとき感じるのが「あんしん」であるのに対して、重い病のなかにあろうがなかろうが感じるのが「あんじん」で、これが宗教的な意味における「救い」です。


タグ:親鸞を読む
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