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本願力の回向をもつてのゆゑに [『教行信証』「信巻」を読む(その141)]

(12)本願力の回向をもつてのゆゑに

二つ目の文は『浄土論』に出てくるもので、五念門の最後の回向門を修することで得られる五功徳門の最後の園林遊戯地門について述べています。それまでの四門が自利(天親は「入」と言い、曇鸞は「往相」と言います)であるのに対して、これは利他(天親は「出」と言い、曇鸞は「還相」と言います)すなわち一切苦悩の衆生を救うはたらきです。この文を読みますと、「応化の身を示し」と言われ、「神通に遊戯し」と言われますから、とても人間業とは思えず、これはいのち終わって、また娑婆に還ってきてからのことのように見えますが、すぐ前のところで述べましたように、還相を往相から切り離して考えることはできません。それをこの文自身が言ってくれています、「本願力の回向をもつてのゆゑに」と。とても人間業とは思えないのも道理で、それは本願力のはたらきであるということです。

本願力の回向により利他教化のはたらきができるということは、本願力が因となり、われらの利他教化のはたらきが果として現われてくるということに他なりませんが、ここでも因と果はひとつであり、因のなかに果があり、果のなかに因があります。本願力のはたらきがわれらの身の上に及び、それを感受した人の利他教化の心(回向発願心)となっているのですから、因である本願力と果である利他教化のはたらきはひとつであり、われらの利他教化のはたらきのなかに本願力があるのです。「大慈悲をもつて一切苦悩の衆生を観察して、応化の身を示して、生死の園、煩悩の林のなかに回入して、神通に遊戯し、教化地に至る」のは信心の人の還相のはたらきですが、その本はといいますと、如来の本願力のはらきであるということです。

それをこう言うことができます、われらが利他教化のはたらきをするのは、弥陀の本願をわが願いとしているということであり、それは本願がわれらを通して本願のはたらきをしているということだと。本願は直接はたらくのではなく、信心の人(本願の人)を通してはたらくということです。

(第13回 完)


タグ:親鸞を読む
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