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他利利他の深義(じんぎ) [「『証巻』を読む」その119]

(6)他利利他の深義(じんぎ)

曇鸞はその問いにこう答えます、天親は「五門の行を修してもつて自利利他成就したまへるがゆゑに」と述べているが、「しかるに覈(まこと)に其の本を求むれば、阿弥陀如来を増上縁(ぞうじょうえん)とするなり」と。つまりこういうことです、菩薩がみずから五念門を修め自利利他の行を成就して証果を得るように見えて、実はそこには阿弥陀如来の本願力がはたらいているのであり、だからこそ速やかに証果に至ることができるのだと。天親自身はそのことをはっきりとは言っていないが、天親の真意はそこにあると曇鸞は指摘し、そしてそのことを示すために「他利利他の深義(じんぎ)」を持ち出すのです。

天親が「菩薩は自利利他して」と言っていることに着目して曇鸞はこう言います、「他利と利他と、談ずるに左右(そう)あり(他利と利他には左手と右手のような違いがあります)」と。ではどう違うかというと、「もし仏よりしていはば、よろしく利他といふべし。衆生よりしていはば、よろしく他利といふべし」と言います。利他すなわち「他を利する」ということばは如来にこそふさわしく、われら衆生からすれば他利すなわち「他(すなわち如来)が利する」としか言えないということです。われらが衆生利益をはたらくといっても、それは如来が衆生のためにはたらいてくださっているのであり、したがってそれは利他ではなく他利としか言えないということです。

で、曇鸞はこういいます、ここで「自利利他して」と言われていることからすれば、これは「仏力を談ぜんと」しているに違いないと。文の表面からすれば、菩薩が自利利他のはたらきをしているように見えるが、実のところは(「覈(まこと)に其の本を求むれば」)如来の本願力のはたらきのことを言っているのだということです。そこからこう結論します、「おほよそこれかの浄土に生ずると、およびかの菩薩・人・天の起すところの諸行は、みな阿弥陀如来の本願力によるがゆゑに」と。往相も還相もすべて「阿弥陀如来の本願力による」のであるというのです。


タグ:親鸞を読む
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