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対症療法 [はじめての『高僧和讃』(その84)]

(4)対症療法

 「治せんがため」ということばに注目しましょう。「いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころ」は治療しなければならない病であるということです。この病はしかし「死に至る病」で、「臨終の一念にいたるまで」治ることがありません。普通の病気は治ることもあれば治らないこともありますが、この病は金輪際治らない。ではどうすればいいか。手はただひとつ、この病と上手につきあい、それがもたらす害毒をできるだけ少なくすることしかありません。
 いわゆる対症療法です。
 いちばん身近な病気である風邪にも対症療法しかありません。その原因であるウイルスをやっつける薬はありませんから(抗生物質は細菌には効き目がありますが、ウイルスには効果がありません)、風邪に伴うさまざまな不快な症状(痰、咳、鼻づまりなど)を抑えることしかできないわけです。「いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころ」も同様、それをやっつける薬はなく、ただそれがもたらす苦しみを抑えることしかできません。「いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころ」そのものを抑えることはできず、それに伴う不快感を減らすしかないのです。
 しかしどのようにして。
 「いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころ」は病であるとはっきり自覚することです。病であると自覚するだけで、しかも「死に至る病」であると自覚するだけで、それがもたらす苦しみはガクンと下がります。「なーんだ、そんなことならお安い御用だ」と言わないでください。病であると自覚することは意外にむずかしいのです。「いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころ」があるのは人間として当たり前であり、それを病というのならみんな病であることになってしまうじゃないか、と感じるのが普通だからです。むしろそのこころがあるのが人間として健全であり、それがないのは何か欠けるところがあるのではないか、と。

タグ:親鸞を読む
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