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『教行信証』精読(その154) ブログトップ

本文1 [『教行信証』精読(その154)]

         第12回 帰命は本願招喚の勅命なり

(1)本文1

 善導の『往生礼讃』からの引用のあと、今度は『観経疏』「玄義分」から有名な六字釈を含む二文が引用されます。

 またいはく、「弘願といふは、『大経』の説のごとし。一切善悪の凡夫、生ずることを得るは、みな阿弥陀仏の大願業力に乗じて増上縁(強縁)とせざるはなし」と。
 またいはく、「南無といふは、すなはちこれ帰命なり。またこれ発願回向(往生を願うこと)の義なり。阿弥陀仏といふは、すなはちこれその行なり。この義をもつてのゆゑにかならず往生を得」と。

 (現代語訳) また「玄義分」にこうあります。弘願といいますのは『大経』に説かれている通りで、一切の衆生が往生できますのは、みな阿弥陀仏の本願力にのせていただき、その強縁によるのだということです。
 さらにこうあります。南無阿弥陀仏の南無といいますのは、われらが如来の命にしたがうことであり、また命にしたがって往生を願うことです。そして阿弥陀仏がその行ですから、願と行が揃い、かならず往生できるのです。

 『観経疏』は字のごとく『観経』の注釈ですが、「玄義分」、「序分義」、「定善義」、「散善義」の4巻に分かれます。「玄義分」といいますのは、経の注釈に入る前に、『観経』を読むにあたってもっとも大事なことを前もって述べておくということです。そこから二つの文が引かれているのですが、一つ目の文は、わが子の阿闍世に幽閉され悲嘆にくれる韋提希夫人が釈迦に安楽の地を求めたのに対して、釈迦が要門(定善・散善の二門)を説き、弥陀が弘願を明らかにしたと述べられた後につづきます。要門はこの『観経』に詳しく説かれるが、弘願は『大経』において説かれているというのです。弘願とは弥陀の48願のなかでも特に第18願を指しますが、善導はその本質が「一切善悪の凡夫、生ずることを得るは、みな阿弥陀仏の大願業力に乗じて増上縁とせざるはなし」という点にあると教えてくれます。

タグ:親鸞を読む
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