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報仏・報土とは [「『正信偈』ふたたび」その7]

(7)報仏・報土とは

そして最後に、そんなわれらを摂取してくださる仏は報仏であり、そして浄土は報土であるとされますが、報仏・報土といいますのは本願が報いられて生まれた仏・仏土ということで、化仏・化土に対することばです。

われらは仏と言い、仏土と言えばどこかにそのような実体が存在するかのように思い浮かべるものですが、そのようなものは化仏であり化土と言わなければなりません。それに対して報仏・報土とは、本願のはたらき(本願力)そのものを「人格」としてあらわし、またそのはたらきを「場」としてあらわしたものに他ならず、そのような「人格」や「場」がそれ自体としてどこかに存在するわけではありません。わが身の上に本願のはたらきが感じられたとき、そこに仏がおわしまし、そこが浄土です。

これすなはち誓願不可思議一実真如海なり。『大無量寿経』の宗致、他力真宗の正意なり」と言われるのはそのことで、報仏と言い、報土と言っても、それは不可思議な誓願のはたらきが一面の海のように広がっているということだと言っているのです。そして『大経』が言わんとすることも、浄土の真実の教え(浄土真宗)というのも、それをおいて他にないということです。

さて以上、浄土真宗の核心を手短に述べたあと、これから「正信念仏偈」を作る趣旨が次のように述べられます。

ここをもつて知恩報徳のために宗師(曇鸞)の釈を披きたるにのたまはく、「それ菩薩は仏に帰す。孝子の父母に帰し、忠臣の君后に帰して、動静(どうじょう)おのれにあらず(自分勝手なふるまいをしない)、出没(しゅつもつ、出入り)かならず由(ゆえ)あるがごとし。恩を知りて徳を報ず、理よろしくまづ啓す(申し上げる)べし。また所願軽からず、もし如来、威神を加したまはずは、まさになにをもつてか達せんとする。神力を乞加(こつか)す、このゆへに仰いで告ぐ」とのたまへり。以上

しかれば大聖(釈迦)の真言(真実の教説)に帰し、大祖(七高僧)の解釈(げしゃく)を閲(えつ)して、仏恩の深遠(じんのん)なるを信知して、「正信念仏偈」を作りていはく


タグ:親鸞を読む
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