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本文2 [「『証巻』を読む」その15]

(4)本文2

『論註』の二つ目の文です。

荘厳(しょうごん)(しゅ)功徳(くどく)成就(じょうじゅ)(国土荘厳十七種のなかの第十二荘厳)とは、偈に〈正覚阿弥陀 法王善住持(じゅうじ)(正覚の阿弥陀法王、よく住持したまへり)〉といへるがゆゑにと。これいかんが不思議なるや。正覚の阿弥陀、不可思議にまします。かの安楽浄土は正覚阿弥陀の善力のために住持(とどめ保ち、支える)せられたり。いかんが思議することを得べきや。住は不異不滅に名づく、持は不散不失に名づく。不朽(ふきゅう)(やく)(朽ちなくさせる薬)をもつて種子に塗りて、水に在くに(みだ)れず、火に在くに(こが)れず、因縁を得てすなはち生ずるがごとし。なにをもつてのゆゑに。不朽薬の力なるがゆゑなり。もし人一たび安楽浄土に生ずれば、後の時に(こころ)に三界に生れて衆生を教化せんと願じて、浄土の命を捨てて願に随ひて生を得て、三界雑生(胎・卵・湿・化の四生を受け、迷いの世界に生まれること)の火のなかに生るといへども、無上菩提の種子、畢竟(ひっきょう)じて朽ちず。なにをもつてのゆゑに。正覚阿弥陀のよく住持を()るをもつてのゆゑにと。

一つ目の文は如来の梵声のはたらきでしたが、二つ目の文は如来の住持力のはたらきについてです。如来の力は不朽薬のように浄土をよく住持するというのですが、曇鸞は特に浄土に往生したものが還相のはたらきをするところに焦点を合わせています。還相は「証巻」の中心的なテーマとしてこの後で詳しく取り上げられますが、ここで一足早く話題となります。本格的な議論はそのときにとっておきたいと思いますが、ただ、一つだけ言っておかなければなりません。それは、ここでの曇鸞の書きぶりからしまして、還相とは一旦浄土に往生した人が「浄土の命を捨てて」ふたたび娑婆世界に戻ってくるように受け取れますが、親鸞の往生観からは別様に了解できるということです。


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すなはち往生を得 [「『証巻』を読む」その14]

(3)すなはち往生を得

願生の心とは、不思議な声が聞こえることでわれらに起るものであることを見てきました。名号(南無阿弥陀仏)とはその声に他なりません。名号といいますとわれらが称えるものと思ってしまいますが、それよりも前に向こうから聞こえてくる不思議な声です。親鸞は「行巻」において、それは「本願招喚の勅命(本願がわれらを招き喚ぶ声)」であることを明らかにしてくれました(「六字釈」)。そして善導はそれを「なんぢ、一心正念にしてただちに来れ」という声であると分かりやすく言ってくれました(「二河白道の譬え」)。その呼び声に接して、われらに願生の心が生まれます。

さて願生の心が生まれたそのとき実に不思議なことが起こります、もうすでに往生していることに気づくのです。

もし往生がこことは別のどこか(アナザーワールド)へ往くことであるとしますと(このことばはそう解するよう強く促す力があります)、往くことを願ったときに、すでに往っているということはありえません。しかし親鸞にとって往生とはどこかへ往くことではなく、「いまここ」で正定聚の位につくことです。そして正定聚の位につくとは、前回くわしく見ましたように、「わたしのいのち(有量のいのち)」が「わたしのいのち」のままで、すでに「ほとけのいのち(無量のいのち)」のなかに包まれていると気づくことに他なりません。としますと、往生を願うのは如来の不思議な声が聞こえることによるのですから、そのときにはすでに「ほとけのいのち」に遇っているのであり、したがってもう正定聚であることに気づいています。かくして「かの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生を得」ということになります。

『論註』の最初の文から、如来の梵声(ぼんしょう)が不可思議なはたらきをすること、それを聞くだけで「すなはち正定聚に入る」(「すなはち往生を得」)という力をもっていることが明らかになりました。


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願生と往生 [「『証巻』を読む」その13]

(2)願生と往生

どうして親鸞はこの読みをしたのかといいますと、普通の読みですと、「剋念して生ぜんと願ずれば」と「往生を得て」の間に「また」が入りますが、それを避けたのではないかと思われます。十八願成就文では「かの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生を得て」であり、願生と往生が「すなはち」でつながっています。この「即」について親鸞は「即はすなはちといふ。すなはちといふは、ときをへず、日をへだてぬをいふなり」(『唯信鈔文意』)と解説していますが、それが「また」となりますと、願生と往生が「ときをへ、日をへだてる」ことになります。こうして十八願成就文のもっとも大事なメッセージが損なわれることを怖れたのではないでしょうか。そこで、無理は承知で、「また」を「剋念して生ぜんと願ぜんもの」と「往生を得るもの」をつなぐことばとし、その両者が「すなはち正定聚に入る」と読んだと推測できます。

さてしかし願生と往生が「すなはち」であるというのは、驚くべきことと言わなければなりません。往生を願ったそのときに往生するとはどういうことでしょう。

どんなときに往生を願うのかを考えてみなければなりません。十八願成就文では「その名号を聞きて、信心歓喜せんこと乃至一念せん」とありました(曇鸞のことばでは「もし人ただかの国土の清浄安楽なるを聞きて、剋念して」)。何か不思議な声(『浄土論』の梵声です)が聞こえてきて、それが心に沁みとおるということです。この声は耳に聞こえる普通の音声ではありません、心に直に届く不思議な声です。前回の最後のところで、プラトンを引き合いに出し、すっかり忘れていたこと、忘れていること自体を忘れていたことをふと思い出すと言いましたが、そのとき実は不思議な声がしているのです、「何か大事なことを忘れてはいないか」と。その声にわれらはハッとし、原風景としての仏国土を思い出す。そのときです、往生したいと願うのは。

これは何を意味するかといいますと、願生の心が「われらに」起っているには違いありませんが、それを「われらが」起こしているのではないということです。原風景としての仏国土を思い出させてくれる不思議な声(これは如来の声に他なりません)がわれらに願生の心を起こしているのです。


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本文1 [「『証巻』を読む」その12]

第2回 煩悩を断ぜずして涅槃分を得

(1)  本文1

経典からの引用の後、曇鸞『論註』から五つの文が引用されます。もちろん、証としての現生正定聚のありようを明らかにするためです。まずは一つ目の文。

『浄土論』(『論註』です。親鸞にとって『浄土論』と『論註』はひとつです)にいはく、「荘厳妙声(みょうしょう)功徳成就(国土荘厳十七種の第十一荘厳)とは、偈に〈梵声(ぼんしょう)()深遠(じんのn) 微妙聞(みみょうもん)十方(じゅっほう)(梵声の悟らしむること深遠にして微妙なり。十方に聞ゆ)〉といへるがゆゑに。これいかんが不思議なるや。経にのたまはく、〈もし人ただかの国土の清浄安楽なるを聞きて、剋念(こくねん)して(一心に信じて)生ぜんと願ぜんものと、また往生を得るものとは、すなはち正定聚に入る〉と。これはこれ、国土の名字、仏事をなす。いづくんぞ思議すべきやと。

天親の『浄土論』に「梵声(如来の清らかな声)の悟らしむること深遠にして微妙なり。十方に聞ゆ」という偈があるのを曇鸞が『論註』で注釈しているのです。曇鸞はこの偈文の背景には第十八願成就文があるのを感じ、それを「もし人ただかの国土の清浄安楽なるを聞きて、剋念して生ぜんと願ぜんものと、また往生を得るものとは、すなはち正定聚に入る」と自分流に言い替えています(因みに第十八願成就文は「あらゆる衆生、その名号を聞きて信心歓喜せんこと、乃至一念せん。至心に回向したまへり。かの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生を得て、不退転に住せん」)。

ただこれは親鸞独特の読み方で、普通に読みますと、「もし人ただかの国土の清浄安楽なるを聞きて、剋念して生ぜんと願ずれば、また往生を得て、すなはち正定聚に入る」となります。どうしてこれを「剋念して生ぜんと願ぜんものと、また往生を得るものとは、すなはち正定聚に入る」と無理な読みをするのかについて、そうすることで現生正定聚を読みこもうとしているという解釈があるようです。しかしそれはいかにも強引な感じがします。それより何より、その解釈では「往生は来生」ということが前提とされています。すでに述べてきましたように、信心のそのときに往生がはじまるとしますと、そんなふうに解釈する必要はありません。「剋念して生ぜんと願ずるもの」はすなわち「往生するもの」であり、そしてまた「正定聚に入る」ものです。ではどうして親鸞はこの読みをしたのでしょう。


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想起 [「『証巻』を読む」その11]

(11)想起

ルソーの場合、自然状態はわれらがそこから離脱することにより人間になったのですから、人間が人間である限り、そこに戻ることはできません。そこに戻ろう(自然に帰ろう)というプログラムは根本的に間違っています。では仏国土はどうか。この場合もわれらがそこから離脱することで娑婆の人間になったのですから、人間が人間であるままで仏国土に戻ることはできる相談ではありません。したがって修行により仏国土に戻ろう(仏になろう)とするプログラムは原理的に誤りであると言わなければなりません。ではわれらには何ができるのでしょう。

プラトンのイデア論を参照しましょう。プラトンはこう言います、われらが何かを見て、「ああ、美しい」と思うのは、そのとき美のイデア(英語ではidea、原型などと訳されます)を思い出しているのだと。われらはこの世に生まれてくる前にイデアの世界に生きていて、美のイデアを目の当たりにしていたのだが、それをすっかり忘れてこの世に生まれてくると言うのです。そして何か美しいものに出会ったとき、忘れていた美のイデアを思い出すことで、「ああ、美しい」と思うと。このイデア論においても、われらはもはやイデアの世界に戻ることはできません、そこから離脱して人間として生まれてきたのですから。では何ができるか。ただイデアを「思い出す」(アナムネーシス、想起)ことだけです。

仏国土も同じように考えることができないでしょうか。われらはあるときふと故郷としての仏国土の原風景を思い出し、それを鏡として娑婆世界のありのままの姿(我執です)に気づくことができるということではないか。さて大事なことは、この「思い出す」ということはわれらがそうしようと思ってできることではないということです。思い出そうとして思い出すことがあるのは、忘れていることだけは覚えているからです。しかし、忘れたこと自体を忘れてしまいますと、もう如何ともしようがありません。それはただ「むこうから」突然おとずれます。これが仏に遇うということで、ここに他力の原義があります。われらが仏に遇うことができるのは、ひとえに仏の力によるということ、これです。

われらは今生において仏に遇うことができ、それがわれらの救いです。「臨終まつことなし、来迎たのむことなし」です。

(第1回 完)


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自然虚無(じねんこむ)の身、無極(むごく)の体 [「『証巻』を読む」その10]

(10)自然虚無(じねんこむ)の身、無極(むごく)の体

次に、『大経』から「それ衆生ありて、かの国に生るれば、みなことごとく正定の聚に住す。云々」という第十一願の成就文だけでなく、「かの仏国土は、清浄安穏にして微妙快楽なり。云々」を引いているのはどうしてだろうと思います。おそらく、成就文は正定聚にしか触れていませんので、滅度について後の文を上げたのだろうと思われます。そして後の文の要諦は「みな自然虚無の身、無極の体を受けたるなり」にあり、自然も虚無も無極も涅槃の言い替えですから、滅度(涅槃)に至ればみな「一如」であるということで、「衆水海に入りて一味なるがごとし」と「正信偈」にある通りです。

さて親鸞がこのような仏国土の荘厳について書かれた経文を引用することはあまりありませんが、それはこのような記述はどうしても仏国土がこことは別のどこかに存在するように思わせるからではないでしょうか。それを避けようとしていると感じられます。このような記述を読んだとき、その反応に二通り考えられます。一つは、経典に説かれるままではないとしても、とにかく仏国土というすばらしい世界がどこかにあり、いのち終わった後そこに往生するのだと思う場合で、二つは、こんなのはただの絵空事にすぎないと端から拒絶する場合です。

しかし、そのどちらでもない第三の道があるのではないでしょうか。それはすぐ上に述べました仏国土を現実のありのままを映し出す鏡として捉えるという道です。

ルソーにとって自然状態が現実の社会を映し出す鏡であるように、仏国土は現実の娑婆世界を映し出す鏡であるということです。仏国土が現実をありのままに映し出す鏡としてのはたらきをすることができるのは、それがわれらの原風景であるからです。原風景とはどういうことでしょう。自然状態がわれらの原風景であるということは、われらはそこから離脱して社会状態に入ることで人間になったということですが、仏国土がわれらの原風景であるということもまた、われらはそこから離脱して娑婆世界に入ることで人間となったということです。


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 [「『証巻』を読む」その9]

(9)鏡

正定聚としての生についてあらためて考えておきましょう。正定聚は「わたしのいのち」を生きながら、同時に「ほとけのいのち」に気づいています。

突然ですが、「わたしのいのち」と「ほとけのいのち」の関係は、ルソーの「社会状態」と「自然状態」の関係に当たると考えることはできないでしょうか。これは国分功一郎氏の『暇と退屈の倫理学』から示唆を受けたことですが、ルソーにとって「自然状態」は人間の理想としてそこを目指すところではありません。「自然状態」から離脱して「社会状態」に移行したのが人間ですから、人間が人間である限り、再び「自然状態」に戻ることはできません。しばしば「自然に帰れ」はルソーのことばとされますが、ルソーは一度もそんなことを言っていないそうです。「自然状態」は人間にとっての原風景であり、それは現実の「社会状態」のみじめさを映し出す鏡としての役割をはたしています。

これを「わたしのいのち」と「ほとけのいのち」に当てはめますと、「わたしのいのち」が「わたしのいのち」である限り、どうもがいても「ほとけのいのち」になることはありません。ですから「ほとけのいのち」は「わたしのいのち」が目指すべき理想郷ではありません。そうではなく「わたしのいのち」のほんとうの姿を映し出す鏡です。われらは自分で「わたしのいのち」の嘘偽りのない姿を直接見ることはできず、それは「ほとけのいのち」という鏡に映してはじめて知ることができます。「わたしのいのち」のほんとうの姿とは「わたしのいのち」に囚われて生きているということ、すなわち我執です。それは「わたしのいのち」を何の根拠もなく他のいのちの上におくことですから、そこから必然的に起こるは自他の相剋です。われらは我執と自他相剋に生きていることに気づかされるのです。

このようにして、われらは「わたしのいのち」の嘘偽りのない姿に気づかされますが、それは同時にそのことを気づかせてくれた「ほとけのいのち」に遇うことでもあります。ルソーにとって万人が自由で平等に生きる「自然状態」は人間の原風景であるように、万物一如の「ほとけのいのち」はわれらの原風景であることに気づくのです。かくしてわれらは「わたしのいのち」を生きながら、「ほとけのいのち」という原風景を生きていることに気づくのです。


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難思議往生 [「『証巻』を読む」その8]

(8)難思議往生

さて、第十一願に「国のうちの」人天、あるいは「国のうちの」有情とあるのに引っかかる人がいるかもしれません。現生に信心を得て正定聚になるとすると、まだ浄土には往生していないのではないか、なぜ「国のうちの人天、定聚に住し」なのかと。これは第十一願だけでは了解できず、第十八願とつなげることで明らかになることですが、現生において信心をえて正定聚(等正覚)となったとき、「すでにつねに浄土に居す」(『末燈鈔』第3通)ことをあらためて確認しておきたいと思います。第十八願の成就文に「かの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住す(願生彼国、即得往生、住不退転)」とありますが、これは本願を信じ、かの国に生まれたいと思ったそのとき、すでに浄土にあるということです。

親鸞はこの文について『唯信鈔文意』で次のように解説しています、「願生彼国は、かのくににうまれんとねがへとなり。即得往生は、信心をうればすなはち往生すといふ。すなはち往生すといふは、不退転に住するをいふ。不退転に住すといふはすなはち正定聚の位に定まるとのたまふ御のりなり。これを即得往生とは申すなり。即はすなはちといふ。すなはちといふは、ときをへず、日をへだてぬをいふなり」と。このことばから明らかでしょう、現生に信心を得て正定聚となったものは、もうすでに浄土に往生しているのです。ここから了解できますのは、浄土に往生するとは、いま生きているこの娑婆を離れて、どこか別の世界へ往くことではないということです。「いまここ」でこれまでの生き方とは異なり、正定聚としての新しい生を生きること、これが難思議往生(※)です。

ときどき往生には「即得往生」と「難思議往生」の二つがあると言われることがあります。前者は信心のときに正定聚になることで、後者は臨終に浄土に旅立つことであるとされます。これは親鸞の現生正定聚の思想と伝統的な往生思想の妥協をはかったものと言うべきですが、これではしかし親鸞浄土教の革新性が損なわれてしまいます。親鸞にとって、信心のそのとき「摂取不捨のゆゑに正定聚の位に住す」ことが即得往生であり、そしてそれが難思議往生に他なりません。だから「臨終まつことなし、来迎たのむことなし」です。


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本文2 [「『証巻』を読む」その7]

(7)本文2

経典からの引用です。

必至滅度の願文、『大経』にのたまはく、「たとひわれ仏を得たらんに、国のうちの人天、定聚に住し、かならず滅度に至らずは、正覚を取らじ」と。以上

『無量寿如来会』にのたまはく、「もしわれ成仏せんに、国のうちの有情、もし決定して等正覚に成り大涅槃を証せずは、菩提を取らじ」と。以上

願成就の文、『経』にのたまはく、「それ衆生ありて、かの国に生るれば、みなことごとく正定の聚に住す。ゆゑはいかん。かの仏国のうちにはもろもろの邪聚(邪定聚、仏になれないもの)および不定聚(仏になることが定まっていないもの)なければなり」と。

またのたまはく、「かの仏国土は、清浄安穏にして微妙快楽(みみょうけらく)なり。無為泥洹(ないおん、涅槃)の道に次(ちか)し。それもろもろの声聞・菩薩・天・人、智慧高明にして、神通洞達せり。ことごとく同じく一類にして、形異状なし。ただ余方に因順するがゆゑに、人天の名あり(他の世界に準じて人や天の名があるだけ)。顔貌端正(げんみょうたんじょう)にして世に超えて希有なり。容色微妙にして、天にあらず人にあらず。みな自然虚無(じねんこむ)の身、無極(むごく)の体を受けたるなり」と。

またのたまはく(如来会)、「かの国の衆生、もしまさに生れんもの、みなことごとく無上菩提を究竟し、涅槃の処に到らしめん。なにをもつてのゆゑに。もし邪定聚および不定聚は、かの因を建立せることを了知することあたはざるがゆゑなり」と。以上抄要

第十一願を『大経』と『如来会』から引用し、その成就文を『大経』から二文、『如来会』から一文引用しています。まず第十一願の願文ですが、二つの経典を照らし合わせることで、「定聚に住す」と「等正覚に成る」、「滅度に至る」と「大涅槃を証す」が同じ意味をもっていることが了解できます。そして「定聚に住す」(「等正覚に成る」)が現生において信心を得たときであり、「滅度に至る」(「大涅槃を証す」)は来生においてであることはこれまで確認してきた通りです。


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しるし [「『証巻』を読む」その6]

(6)しるし

転輪王の子が「われいままたこの相(転輪王の相)あり」と気づいて「またまさにこの豪富尊貴を得べし」と思うように、本願に遇うことができたものは、自分にはある特別な相があることに気づき、「われかならずまさに作仏すべし」と思うことができるというのです。「相」とは「しるし(徴)」でしょう。本願に遇うことができますと、自分には「あるしるし」がついていることに気づくということです。「かならず仏になる」ことの「あかし(証)」はどこにもありませんが、その「しるし(徴)」が自分のなかについていることに気づくのです。「あかし」は誰の目にも見えるものですが、「しるし」は本人しか気づくことができません。その「しるし」に気づいた人が正定聚です。

さて親鸞は「正定聚に住するがゆゑに、かならず滅度に至る」と述べたあと、滅度をさまざまなことば(常楽、寂滅、無上涅槃、無為法身、実相、法性、真如)に言い換え、結局それは一如であるとします。そして最後に「しかれば、弥陀如来は如より来生して、報・応・化、種々の身を示し現じたまふなり」と述べるのですが、さてこれをどのように了解すればいいでしょう。あらためて確認しておきますと、われらにとって滅度あるいは一如は「わたしのいのち」を生きている限り手の届かない境地ですが、このことは、滅度あるいは一如とは「わたしのいのち」の現実の姿(煩悩具足で自他相剋のみじめな姿)を照らし出すための光としてのはたらきをしていると受けとめることができます。その光があってはじめてわれらの真実の姿が浮かび上がる、そのような光であるということです。

阿弥陀仏とは「無量の光(アミターバ)」です。われらはこの「無量の光」に照らされて、はじめて己のほんとうの姿に気づくことができるということ、「弥陀如来は如より来生して」ということばはそれを言っていると考えることができます。阿弥陀仏は何処かに超然として存在するのではありません。それは「無量の光」としてわれらのもとに「来生して」、われらの真実の姿を照らし出します。そのとき、われらは己の偽らざる姿に気づき、同時に、それを照らし出している「無量の光」にも気づくのです。これが阿弥陀仏に遇うことができ、かならず仏となる「しるし」が身についたということです。


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