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偈文1(第8回、曇鸞) [「『正信偈』ふたたび」その70]

第8回 往還の回向は他力による

(1)  偈文1

龍樹、天親とインドの二高僧を讃える偈につづいて、今度は中国の曇鸞が讃えられます。まずは前半の6句。

本師曇鸞梁天子 常向鸞処菩薩礼

三蔵流支授浄教 梵焼仙経帰楽邦

天親菩薩論註解 報土因果顕誓願

本師曇鸞は、梁の天子、常に鸞の処に向かひて菩薩と礼(らい)したてまつる。

三蔵流支(さんぞうるし)、浄教を授けしかば、仙経を梵焼して楽邦に帰したまひき。

天親菩薩の『論』(浄土論)を註解(ちゅうげ)して、報土の因果誓願に顕す。

曇鸞という人がどれほど人々の崇敬を受けていたかは、南朝・梁の皇帝である武帝がいつも曇鸞のいる北に向かって菩薩の礼をとられていたことからも分かります。

インドの菩提流支三蔵(ぼだいるしさんぞう、菩提流支三蔵。三蔵とは経・律・論のことで、それに精通している人も指す)が曇鸞に『観無量寿経』を授けてからは、せっかく手に入れた不老長寿の道教経典を焼いて、浄土の教えに帰されました。

そして天親菩薩の『浄土論』を注解して、浄土へ往生する因も果もみな弥陀の本願によることを顕かにしてくださったのです。

曇鸞については、その教説に入る前に、その人となりについていくつかのことが言われます。まずはじめの二句ですが、曇鸞という人は南北朝時代とよばれる分裂の時代に生きた人で(476年~542年)、北の北魏という異民族(鮮卑族)支配の国に生まれました。彼の時代には雲崗や竜門の石窟寺院が造営されたことからも分かりますように、仏教が保護された時代でした。中国の南半分(江南)は漢民族の王朝が相次いだのですが、その一つ、梁の皇帝・武帝も曇鸞の徳を讃え、菩薩としての礼を取ったとされます。曇鸞は龍樹の空の思想を学んだ人で、中国に四論宗(龍樹の『中論』・『十二門論』・『大智度論』に提婆の『百論』を加えた四論に依る宗)を開いたとも言われ、国の内外から尊敬されていたことが分かります。

さて第三・四句はその曇鸞についての有名なエピソードです。曇鸞は大部の経典『大集経』を注釈しているときに病を得て、幸いその病は癒えましたが、それを機に長生不死の神仙術を学ぶため、はるばる江南(長江以南を指します)の高名な道士(道教の指導者)・陶弘景を訪ねます。そして十巻の書を得て北に戻ってきたとき、洛陽で菩提流支に出あうのです。


タグ:親鸞を読む
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