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「ほとけのいのち」に帰る [「信巻を読む(2)」その77]

(7)「ほとけのいのち」に帰る

「わたしのいのち」は「わたしのいのち」のままで、すでに「ほとけのいのち」であるということは、「ほとけのいのち」がいま「わたしのいのち」を生きているということに他なりません。いま「わたし浅井勉といういのち」が生きているということは、「ほとけのいのち」が仮に浅井勉という名札をつけて生きているということです。そして「わたし浅井勉といういのち」はそれほど遠くない先に終わることになりますが、それは「ほとけのいのち」から浅井勉という名札がとれるだけのことで、「ほとけのいのち」そのものには何の変化もありません。

「いのちが終わるとき」に仏となるというのは、「浅井勉という名札のついたいのち」が終わり、そのとき元の「ほとけのいのち」そのものに帰るということです。ところが「いのちが終わってから」仏になるということになりますと、「浅井勉という名札のついたいのち」が一旦終わった後に、その「浅井勉という名札のついたいのち」があらためて「ほとけのいのち」になるということになります。これは「わたしのいのち」は仮設(けせつ)されたものにすぎず、実体ではないという仏教の根本原則に反します。繰り返しになりますが、「いのちが終わる」ということは、「わたしのいのち」(「浅井勉という名札のついたいのち」)が消えることであり、「ほとけのいのち」に帰るということです。それを「仏となる」と言っているのです。

さて、「念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す」と言われたあと、「しかのみならず、金剛心を獲るものは、すなはち韋提と等しく、すなはち喜・悟・信の忍を獲得すべし」と付け加えられています。これは正信偈に「本願の大智海に開入すれば、行者まさしく金剛心を受けしめ、慶喜の一念相応して後、韋提と等しく三忍を獲」と言われていることです。本願に遇うことができ、金剛心を賜ったものは、臨終一念の夕を待つことなく、すでに無生法忍を得ているのです。すなわち本願に遇えたそのとき、「ほとけのいのち」が「わたしのいのち」を生きていることに気づかせてもらえたのであり、そのとき「仏となる」のではありませんが、もう「仏となるにひとし」と言わなければなりません。


タグ:親鸞を読む
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