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「生きてきてよかった」 [『唯信鈔文意』を読む(その20)]

(6)「生きてきてよかった」

 さて、どうすれば安心を与えられるでしょう。それをひと言でいいますと、「あゝ、これまで生きてきてよかった」と思えるかどうかです。心底そう思えることが安心して生きるということです。そして「もういつ死んでもいい」と思えることです。では、どうすれば「生きてきてよかった」と思えるか。
 自分を「救う」ことができるということは、自分で「生きてきてよかった」と思えるということですが、はたしてそれは可能か。
 そう思うようにつとめればいいじゃないか、と言われるかもしれません。ふむ。ではそのようにつとめてみましょう。これまでの人生をふり返って、「いい両親のもとで何不自由なく育てられ、また長じては、いい家族と友人に恵まれて幸せにやってこれた、もう思い残すことはない」と思えるかどうか。そう思える人は問題ありません。その人は救いを必要としない人でしょう。
 でも、こころの奥の方に疼きをもっている人がいます。「いいヤツから死んでいった」と、生き残ったことに咎を感じている元兵士。その人には「こんな自分が」という思いがあり、そのトゲがときどき疼くのです。そんなとき、どれほど「生きてきてよかった」と思いたくても、思うことはできません。
 ひと言申し添えますが、自分で「生きてきてよかった」と思おうとしても思えないのは、これまでをふり返って「わたしの人生暗かった(そんな歌が昔あったような)、いいことなどひとつもなかった」とただ単に詠嘆するからではありません。そのような詠嘆はともすると自分をどこかに置き去りにしています。自分のことを棚に上げて、自分を取り巻く状況を嘆いています。
 でもほんとうに悔やまれるのは、状況そのものではなく、その中で自分が何をしたかということです。時代の悪、環境の悪とは、とりもなおさず己の悪に他ならないということ、これを忘れるわけにはいきません。


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