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すなはち往生を得 [「親鸞とともに」その123]

(7)すなはち往生を得

この「即得往生」に浄土の教えの眼目があることから、親鸞はさまざまなところでこの一句に言及していますが、その一つを上げておきましょう。「即得往生は、信心をうればすなはち往生すといふ。すなはち往生すといふは不退転に住するをいふ。不退転に住するといふはすなはち正定聚の位に定まるとのたまふ御のりなり。これを即得往生とは申すなり。即はすなはちといふ。すなはちといふは、ときをへず、日をへだてぬをいふなり」(『唯信鈔文意』)。ここで「往生すなわち不退転(仏となることから退転しないこと)すなわち正定聚(正しく仏となることが定まっていること)」とされ、往生するということばは「どこかへ往って生まれる」というイメージをもたせてしまいますが、そうではなく、信心を得た「いまここ」で「不退転となり」、「正定聚となる」ことであることが明らかにされています。

これは、「いのち、みな生きらるべし」という本願のこえが聞こえたそのとき、これまで「たてさま」に流れていた時間が突如として断ち切られ、そこに「ほとけのいのち」という「永遠」が姿を現したということです。これを親鸞は善導のことば「前念命終 後念即生(前念に命終し、後念に即生す)」を借りて、これまでの古い生が終わり、正定聚という新しい生がはじまることだと言います(『愚禿鈔』)。そしてさらにはその永遠の「いま」について、これまた善導のことばを借りて、「信心のひとは、その心すでにつねに浄土に居す」と表現します(『末燈鈔』第3通)。これが親鸞の往生であり、それは信心が開けたそのときすでにはじまっているのであり、もう浄土に居るのです。

ところが浄土教の伝統的な教えでは、往生は「いま」ではなく「未来」であるとされてきました。親鸞がその伝統的な往生観をコペルニクス的に転換したあとでも、往生は未来であるという古い往生観はしぶとく生きつづけています。救いは信心の「いま」ではなく、「未来」であると思われているのです。どうしてそうなるのか、問題の本質はやはり信心の「いま」をどう見るかにあります。それは時間軸上の一点としての「いま」か、それとも永遠の「いま」であるかということです。


タグ:親鸞を読む
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