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第3通第一段本文 [親鸞の手紙を読む(その30)]

         第3回 その心すでにつねに浄土に居す

(1)第3通第1段本文

 『末燈鈔』第3通です。2段に分け、その第1段。

 信心をえたるひとは、かならず正定聚の位に住するがゆゑに等正覚の位とまふすなり。『大無量寿経』には、摂取不捨の利益に定まるものを正定聚となづけ、『無量寿如来会』には、等正覚と説きたまへり。その名こそかはりたれども、正定聚・等正覚は、ひとつこころ、ひとつ位なり。等正覚と申す位は補処の弥勒(ふしょのみろく)とおなじ位なり。弥勒とおなじく、このたび無上覚にいたるべきゆゑに、弥勒とおなじと説きたまへり。

 (現代語訳) 信心を得た人は、必ず悟りに至ることがさだまった正定聚の位につくのですから、それをまた仏の正覚に等しい位である等正覚の位と言うのです。『大無量寿経』では、弥陀に摂取されもはや捨てられないという利益にさだまった者を正定聚と名づけ、『無量寿如来会』ではそれを等正覚と言います。その名前こそ違いますが、正定聚と等正覚とはひとつの意味、ひとつの位です。等正覚という位は、次に仏となる弥勒と同じ位です。信心を得た人は、弥勒と同じくこのたび無上の悟りに至るとさだまったのですから、弥勒と同じと言われるのです。

 この手紙は正嘉(しょうか)元年丁巳(ひのとみ)十月十日の日付があり、性信房に宛てられています。正嘉元年は1257年で(親鸞85歳)、これまで読んできました第2通(建長七年)の2年後になります。その間の建長八年の五月に善鸞が義絶されたことはすでに述べましたが、それによって善鸞を震源とする混乱もおさまり、関東にも平穏が戻ってきたと思われます。そんな時期に、混乱の渦中にあっていちばん苦労した性信房に宛ててこの手紙が書かれています。中心テーマは信心の人は正定聚・等正覚だから「弥勒とおなじ」であり「如来とひとし」ということです(親鸞は「おなじ」と「ひとし」を厳格に使い分けています)。

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