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「わたし」 [正信偈と現代(その203)]

(2)「わたし」

 さてしかし、ぼくらは普段ここに独立自存の「わたし」がいると思っています。これはもうあらゆることの根本前提となっていて、この「わたし」がいるからこそすべてがはじまるのであり、もし「わたし」が次の瞬間に消えてしまったら、ちょうど映画が途中で突然おわってしまうように、すべてがおわってしまうと思います。死の恐怖はここからきます。「わたし」が突然消えてしまい、世界のすべてが無に帰してしまうのは何とも恐ろしい。そこでこの恐怖を和らげようと、死んでも「わたし」(の魂)は生き続けるというストーリーが紡がれることになります。
 なるほど、デカルトではありませんが、「わたし」がいることほど確かなことはないように思えます。他のすべてが疑わしくとも、「わたし」がいることだけは疑いない。そして、ここに「わたし」がいるように、周りには無数の「わたし」がいることも確かでしょう。いや、この「わたし」がいることだけが確かで、他に「わたし」がいるという根拠はどこにもない、という立場(独我論とよばれます)もありえますが、本気でそう思っている人は、そんなふうに言うこともないでしょう。そう主張する人は、この「わたし」と同じような「わたし」が他にいると思っているに違いありません。
 かくしてこの世界は無数の「わたし」で成り立っています。そして、「わたし」は独立自存だとはいえ、それぞれが無関係に生きているのでないのは言うまでもありません。互いに複雑な関係を取り結ぶことではじめて生きていけます。しかし大事なことは、まず「わたし」があり、しかる後に他の「わたし」とさまざまな関係を取り結ぶということです。「わたし」がいてすべてがはじまるのです。
 「そんなことはないだろう」という反論が予想されます。まずもってさまざまな関係が張り巡らされているなかにわれらは生きているのではないか、と。

タグ:親鸞を読む
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