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自然虚無(じねんこむ)の身、無極(むごく)の体 [「『証巻』を読む」その10]

(10)自然虚無(じねんこむ)の身、無極(むごく)の体

次に、『大経』から「それ衆生ありて、かの国に生るれば、みなことごとく正定の聚に住す。云々」という第十一願の成就文だけでなく、「かの仏国土は、清浄安穏にして微妙快楽なり。云々」を引いているのはどうしてだろうと思います。おそらく、成就文は正定聚にしか触れていませんので、滅度について後の文を上げたのだろうと思われます。そして後の文の要諦は「みな自然虚無の身、無極の体を受けたるなり」にあり、自然も虚無も無極も涅槃の言い替えですから、滅度(涅槃)に至ればみな「一如」であるということで、「衆水海に入りて一味なるがごとし」と「正信偈」にある通りです。

さて親鸞がこのような仏国土の荘厳について書かれた経文を引用することはあまりありませんが、それはこのような記述はどうしても仏国土がこことは別のどこかに存在するように思わせるからではないでしょうか。それを避けようとしていると感じられます。このような記述を読んだとき、その反応に二通り考えられます。一つは、経典に説かれるままではないとしても、とにかく仏国土というすばらしい世界がどこかにあり、いのち終わった後そこに往生するのだと思う場合で、二つは、こんなのはただの絵空事にすぎないと端から拒絶する場合です。

しかし、そのどちらでもない第三の道があるのではないでしょうか。それはすぐ上に述べました仏国土を現実のありのままを映し出す鏡として捉えるという道です。

ルソーにとって自然状態が現実の社会を映し出す鏡であるように、仏国土は現実の娑婆世界を映し出す鏡であるということです。仏国土が現実をありのままに映し出す鏡としてのはたらきをすることができるのは、それがわれらの原風景であるからです。原風景とはどういうことでしょう。自然状態がわれらの原風景であるということは、われらはそこから離脱して社会状態に入ることで人間になったということですが、仏国土がわれらの原風景であるということもまた、われらはそこから離脱して娑婆世界に入ることで人間となったということです。


タグ:親鸞を読む
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