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念仏して、いそぎ仏に成りて [『歎異抄』ふたたび(その52)]

(9)念仏して、いそぎ仏に成りて

 何とかして「人を教えて信ぜしめよう」と思っているのに、「存知のごとくたすけがたい」のは何とももどかしいことですが、さてしかし翻って考えてみますと、そのもどかしさの根っ子に「自分の力で」という思いが潜んでいはしないでしょうか。自分が「人を教えて信ぜしめよう」としているのに、それが思うようにできないと苛立っているのではないでしょうか。あらためて言うまでもなく、「人を教えて信ぜしむ」ことができるのはただ如来の本願力のみです。それをどこかで自分の力にすり換えてはいないか。
 このように思い至りますと、「念仏して、いそぎ仏に成りて、大慈大悲心をもつて、おもふがごとく衆生を利益する」という文言もこれまでとは違う相貌をみせるようになります。これは一見すると、今生では思うように利他教化できないから、来生に仏となって「おもふがごとく衆生を利益」すればいい、と言っているように思えます。そこからどうしようもない消極性、後ろ向きの姿勢を感じてしまうのですが(そのように感じさせることば遣いであることは否定できません)、しかしその真意は別のところにあるのではないでしょうか。
 「馬を水場にまで連れていくことはできても、水を飲ませることはできない」ということばがありますが、これは自分の力で水を飲ませることができるように勘違いしてしまうことを誡めています。そのように、この「念仏して云々」のことばもまた、われらはともすると自分の力で「人を教えて信ぜしむ」ことができるように思うものだが、われらにできるのは「人を教えて信ぜしめよう」と水場に導くことまでであって、実際に「人を教えて信ぜしむ」のは如来の本願力であることを忘れてはいけないと言おうとしているのではないでしょうか。
 ここで考えてみたいのが、曇鸞が『論註』の最後のところで阿弥陀仏の他力について述べている次のくだりです、「他利と利他と、談ずるに左右(さう)あり。もし仏よりしていはば、よろしく利他といふべし。衆生よりしていはば、よろしく他利といふべし」と。仏から言えば、他である衆生〈を〉利するのだから利他となるが、衆生から言えば、他である仏〈が〉利するのだから他利といわなければならないというのです。

タグ:親鸞を読む
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