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因果ということ [『ふりむけば他力』(その77)]

              第7章 因果と他力

(1)因果ということ

 仏教は因果の教えであると言われます(「因果を撥無(はちむ)するものは仏教にあらず」とされます)。そして近代科学の根本原理も因果であると言うことができるでしょう。同じ因果ということばで呼ばれますが(というより、もともと仏教のことばである因果が近代科学の原理を指すものとしてつかわれているということです)、さて両者は同じものでしょうか、はたまた異なるのか。異なるとすればどこでどう異なるか、この問題を取り上げたいと思います。これは何でもないことのようで、実は仏教の本質に関わり、したがって他力の理解に直に影響してきます。そこで、これまでも折にふれて顔を覗かせてきましたこの問題をここで主題として考えておきたいと思うのです。
 さて近代科学の因果概念の本質を説き明かした人としてヒュームというイギリス経験論の哲学者(1711~1776)を取り上げます。カントを独断のまどろみから目覚めさせ『純粋理性批判』を書かせたと言われる人です。ニュートンに代表される近代科学を成り立たせている原理のひとつ、そのもっとも重要なものが因果律であるのは明らかですが、さてこの原理の本質は何か、そしてその成立根拠はどこにあるか。これをヒュームは自己の哲学の主要課題とし、頭がおかしくなるほど考え詰めました(実際、彼は一時期、精神を病んでいます)。
 ヒュームはロック、バークリの経験論哲学、すなわちわれらの観念や知識(観念が連合されて知識が生まれます)の源泉はすべて経験であるという基本的立場を引き継ぎ、それをさらに徹底させたと言えます。
 教科書的な整理になりますが、ヨーロッパの近代哲学はデカルトやライプニッツそしてスピノザと言った合理論哲学(彼らはみなヨーロッパ大陸の人ですので、大陸合理論とよばれます)と、ロック・バークリ・ヒュームの経験論哲学(彼らはみなイギリス人で、これをイギリス経験論といいます)がくっきりとしたコントラストを見せてきました(因みに両者を綜合したのがカントの批判哲学であると評されます)。経験論と合理論を分けるメルクマールは、われらの持っている観念の源泉はすべて経験であるか、それとも理性も観念の源泉と考えることができるかにあります。

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