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至心・信楽・欲生、その言異なりといへども、その意これ一つ [『教行信証』「信巻」を読む(その148)]

(7)至心・信楽・欲生、その言異なりといへども、その意これ一つ

これまでの三心釈を受けて、次に至心・信楽・欲生の「三心」はみな真実の「一心」であることが述べられます。

まことに知んぬ、至心・信楽・欲生、その言(ことば)異なりといへども、その意(こころ)これ一つなり。なにをもつてのゆゑに。三心すでに疑蓋まじはることなし、ゆゑに真実の一心なり。これを金剛の真心と名づく。金剛の真心、これを真実の信心と名づく。真実の信心はかならず名号を具す。名号はかならずしも願力の信心を具せざるなり。このゆゑに論主建(はじ)めに「我一心(われ一心に)」とのたまへり。また「如彼名義欲如実修行相応故(かの名義のごとく、実のごとく修行し相応せんと欲ふがゆゑに)」とのたまへり。

あらためて三心一心問答とは何かを確認しておきましょう。親鸞はこう問います、「如来の本願、すでに至心・信楽・欲生の誓を発したまへり。なにをもつてのゆゑに論主(天親)〈一心〉といふや」と。第十八願には至心・信楽・欲生の三心が出されているのに、天親菩薩は『浄土論』の冒頭で「世尊、われ一心に」と言うのは何故だろうかという問いかけですが、親鸞はこれに、まず字訓釈により本願の三心と天親の一心はひとつであると答え、そしてさらに仏意釈により三心の意味を深く探ってきたのでした。そしてその結論がここで述べられることになります。すなわち至心・信楽・欲生はそのことばは別だけれども、その意味は同じ、すなわち「そこに一切の疑蓋のまじることはない」ということだと。天親が一心と言ったのもその意味ですから、本願の三心と天親の一心はひとつであるということです。

「三心は一心である」というとき、三心に分かれているけれども結局のところ一つであるということと、本願の三心は天親の一心と同じであるという両方の意味が含まれていますが、肝心なのは三心はみな「疑蓋まじはることなし」であり、それが「一心」ということに他ならず、そしてそれが「真実の信心」であるということです。

 


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