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救いは「いまここ」に [親鸞の和讃に親しむ(その36)]

(6)救いは「いまここ」に

あることに気づいたということは、それが「もうすでに」そこにあるということであり、「これから」のことに気づくことはありません。ちょっと待った、明日のことについて何かに気づくということもあるのではないか、という反論があるかもしれません。しかし、それは何か予兆のようなものに気づくということで、それは予兆が「もうすでに」そこにあることに気づいているのであり、明日そのものについて何かを気づいているのではありません。かくして自力の救いは「これから」であるのに対して、他力の救いは「もうすでに」であることが明らかになりましたが、これで終わったわけではありません。そもそもなぜ救いは「もうすでに」であって、「これから」ではないのかという問いは手付かずのまま残っています。それはなぜ救いは自力で得られるものではなく、他力により与えられるしかないのかという問いの形を変えただけのことです。

この問いは救い(安心、仏教ではあんじんと読みます)とは何かということに関わります。救いには大きく二種類あります。ひとつはその時々の状況によって左右される救いで、もうひとつは状況には左右されず、生きることそのものに関わる救いです。前者は、たとえば大病を得るとか、仕事を失くすといった苦境からの救いで、そうした苦しい状況が改善されることにより救われます。そしてこの種の救いはわれらが自分一人の力によっては難しくても、みんなが力を合わせることにより手に入れることができます。政治や経済や、法や国家はそのためにあると言えるでしょう。さて問題は後者の救いです。これはその人がどのような状況にあろうと、生きている限り必要とされる救いで、たとえばこの和讃で「流転輪廻のつみきえて」と言われること、あるいは「定業中夭のぞこりぬ」と言われることです。それは生死の迷いから抜けること、生にしがみつき、死を怖れることから自由になることです。

そしてそれは本願他力により、「わたしのいのち」はそのままで、すでに「無量(アミタ)のいのち」であることに気づかせてもらうことです。この気づきさえ与えられれば、もうすでに「無量のいのち」のなかで生かされているのであり、独り生死を流転することはありませんし、定業も中夭も関係ありません。


タグ:親鸞を読む
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