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唯識 [親鸞最晩年の和讃を読む(その91)]

(8)唯識

 ちょっと待った、とさらに反論があるでしょう。親が子に寄り添っている事実は、子がそれに気づいてはじめて存在すると言うが、子が気づくことができるためには、前もってそれが存在していなければならないのではないのか、と。本願に気づくことができるのは、それが十劫の昔に成就していたからこそではないのか、と。何かが存在するから、それに気づくことができる。当たり前だのクラッカー、なんて古いシャレが口をついて出てしまいますが、この強固な常識に対するに、ここで唯識(無着・世親兄弟によって大成された学説)のお出ましを願いましょう。
 唯識はこう言います、「あらゆるものは識(こころ)に縁ってある」と。これを、「あらゆるものはこころのつくりだした表象である」としてしまいますと(しばしばそう解説されますが)、極端な観念論になり、受け入れがたく感じられます。誰かに棒で殴りかけられたとき、その棒はこころのつくりだした表象であると澄ましていられる人がいるとは到底思えません。唯識はそんな無茶なことを言うのではなく、どんなものも「こころに縁って存在する」と主張するのです。こころと無縁に存在するものは何ひとつないと。
 こんな詩を手がかりにしたいと思います。

    部屋に入って 少したって
     レモンがあるのに
     気づく 痛みがあって
     やがて傷を見つける それは
     おそろしいことだ 時間は
     どの部分も遅れている(北村太郎)

 「あっ、レモンが」と気づいてはじめてそのレモンは存在するようになるというのが、唯識の「こころに縁って存在する」ということです。当然、反論があるでしょう。「そんなばかな、レモンは気づかれる前から部屋の中にあったのであり、だからこそ、それに気づけたのではないか。気づかれることに縁ってはじめて存在するようになるなんて正気の沙汰ではない」と。

タグ:親鸞を読む
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