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弥陀・観音・大勢至 [親鸞の和讃に親しむ(その99)]

(9)弥陀・観音・大勢至

弥陀・観音・大勢至 大願のふねに乗じてぞ 生死のうみにうかみつつ 有情(うじょう、衆生)をよぼうてのせたまふ(第53首)

弥陀と観音・大勢至、弘願の船の上にあり、生死の海に浮んでは、有情をよんで乗せたもう

「生死のうみにうかみつつ 有情をよぼうてのせたまふ」がしみじみと身に沁みます。弥陀も観音も勢至も、どこか遠くにおわすのではなく、われらが浮き沈みしているこの生死の海におられるということ。曇鸞は『論註』で如来には「実相の身」(真理そのもの、いろもかたちもない)だけでなく「為物の身」(衆生を救うための姿)があると述べていますが、「生死のうみにうかみつつ 有情をよぼうてのせたまふ」ことこそ為物の身ということでしょう。如来に「実相の身」しかありませんと、われらには縁遠い存在と言わなければなりませんが、「お前を待っているぞ、いつでも帰っておいで」と「有情をよぼうて」くださる「為物の身」であるからこそ、救いを実感することができるのです。「正信偈」に「惑染の凡夫、信心発すれば、生死すなはち涅槃なりと証知せしむ」とありますが、「生死すなはち涅槃なり」という真理も、ただそれだけをポンと示されるだけでは近寄りがたく、「いつでも帰っておいで」という声が聞こえて(これが信心発するということです)、はじめて身に沁みるのです。

ただこの和讃から、大願の船に乗せてもらうことができれば、もう生死の海から離脱して涅槃の海に入ることができるとイメージしますと、それは違うと言わなければなりません。大願の船に乗ることができたとしても、依然として生死の海にあることは変わりありません。これまで同様、生死の海を漂いながら、でも同時に大願の船の上にいるのです。そのとき生死の海が生死の海でありながら、そのままで涅槃の海になっているということです。「わたしのいのち」はこれまで通り煩悩まみれの「わたしのいのち」を生きながら、そのままで「ほとけのいのち」に包まれ、そのなかで生かされていることに気づいているのです。これが「生死すなはち涅槃なり」ということです。


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南無阿弥陀仏の回向の [親鸞の和讃に親しむ(その98)]

(8)南無阿弥陀仏の回向の

南無阿弥陀仏の回向の 恩徳広大不思議にて 往相回向の利益には 還相回向に回入せり(第51首)

南無阿弥陀とどくとき、その徳ひろく不思議にて、自分の利益だけでなく、ひとにも利益およぼせり

往相回向と還相回向の関係についてはすでに『高僧和讃』の曇鸞讃において取り上げられていましたが、ここであらためて詠われます。二種回向は、まず往相、次いで還相というように切り離されているのではなく、往相がそのまま還相であるということでしたが、さてではこの和讃の「往相回向の利益には 還相回向に回入せり」という言い回しをどう理解したらいいでしょう。これを伝統的な教えのなかにおいて読みますと、まず浄土へ往く道を歩ませていただき、それが成就したのちに再び穢土に還ってきて利他教化のはたらきに回入させていただくというように理解できます。今生において穢土から浄土へ往き、来生に浄土から穢土に還るという具合ですが、こうした理解は、浄土をこの穢土とは別の世界(アナザーワールド)と見ることから生まれてきます。

しかし、繰り返し述べてきましたように、浄土とはどこか別のところにある世界ではなく、ひとつの世界意識に他なりません。「わたしのいのち」は「わたしのいのち」のままで「ほとけのいのち」のなかで生かされていると気づいたとき、目の前に浄土が開けるのです。それに気づいたときに浄土が生まれるのではありません、もうずっと前から「ほとけのいのち」のなかで生かされていたのですが、それにまったく気づかずに過ごしてきたということです。もうすでに浄土のなかにいたことにはたと気づいたのです。これが「往相回向の利益」に与ったということですが、それがそのままで「還相回向に回入せり」で、往相回向とは別に還相回向があるのではなく、往相回向に与ることがはからずも還相回向のはたらきをしているのです。

曽我量深氏の印象的なことばをお借りしますと、われらは往相回向という自分の「前姿」しか見ることができませんが、他の人たちは還相回向というわれらの「後姿」と見ているということです。子は親の後姿を見て育つと言われますように、われらは「ほとけのいのち」に生かされている自分をありがたく思っているだけですが、その後姿を見る人はそこに如来の還相回向を見ているのです。


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無始流転の苦をすてて [親鸞の和讃に親しむ(その97)]

(7)無始流転の苦をすてて

無始流転の苦をすてて 無上涅槃を期(ご)すること 如来二種の回向(往相回向と還相回向)の 恩徳まことに謝しがたし(第49首)

無始よりつづく苦しみが、無上涅槃に転ずるは、本願力の回向にて、その恩いかに謝すべきか

これまでの来し方をふり返って、いかに長い時間、生死の苦海を流転してきたかという述懐にときどき出会うことがあります。思い出すまま上げてみますと、『高僧和讃』の源空讃には「曠劫多生のあひだにも 出離の強縁しらざりき」とありましたし、『教行信証』序には「弘誓の強縁、多生にも値ひがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし」とありました。また善導の『観経疏』には「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなし」とありました。そしてこの和讃では「無始流転の苦」と詠われますが、言うまでもなく、このような述懐は「遇ひがたくしていま遇ふことを得たり、聞きがたくしてすでに聞くことを得た」(『教行信証』序)ときに、これまでをふり返って言われています。本願名号に遇うことができた「いま」はじめてこのような感慨がわきあがってくるということです。本願名号に遇うことがなかったこれまでは、生死の苦海を流転しているなどとは思いもせず、日々の暮らしに喜怒哀楽を感じていただけです。

こんなふうに、無始よりこのかた生死の苦海を流転してきたのが、どういうご縁か本願名号に「遇ひがたくしていま遇ふことをえたり」と思えるとき、同時に、「もしまたこのたび疑網に覆蔽(ふへい)せられば、かへつてまた曠劫を経歴(きょうりゃく)せん」(『教行信証』序)という感慨が起こります。そしてここから「恩徳まことに謝しがたし」という思いが湧き起ってくるのです。如来から「お前を待っているから、いつでも帰っておいで」という声が聞こえるのは、「何とありがたい(あること難し)ことか」という思いです。「無始よりこのかた云々」という言い回しと対になるのが「かたきがなかになほかたし」という文言で、これまたしばしばお目にかかります。正信偈には「弥陀仏の本願念仏は、邪見・驕慢の悪衆生、信楽受持すること、はなはだもつて難し。難のなかの難これに過ぎたるはなし」と言われています。


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真実報土の正因を [親鸞の和讃に親しむ(その96)]

(6)真実報土の正因を

真実報土の正因を 二尊のみことにたまはりて 正定聚に住すれば かならず滅度をさとるなり(第43首)

真の浄土の正因を、釈迦・弥陀二尊にたまわりて、正定聚にぞさだまれば、かならず悟りひらくなり

「真実報土の正因」とは、言うまでもなく信心、すなわち本願の気づきです。そしてそれを「二尊のみことにたまはりて」と詠われるのは、これまた言うまでもなく弥陀・釈迦の仰せをいただいてということです。二尊の仰せと言えば、善導が二河白道の譬えの中でそれに素晴らしいかたちを与えてくれていることを思い出します。白道を前にした旅人に、河の東岸から釈迦が「きみただ決定してこの道に尋ねて行け、かならず死の難なけん。もし住(とど)まらばすなはち死せん」と呼びかけ、一方、西岸からは弥陀が「なんぢ一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ」と招くのでした。

さてここで考えたいのは、こうした弥陀や釈迦の仰せはどこからやってくるかということです。

善導が二尊の仰せとして上げていた「きみただ決定してこの道を尋ねて行け」と「なんぢ一心に正念にしてただちに来れ」ということばは経典のどこを探してもありません。これは善導がみずから聞いた声です。しかしそれは、あるとき突然これらの声が善導に向かって中空から舞い降りてきたということではありません。これは彼が経典を読んだり、あるいは道綽の教えを受けているときに、その文字や声を通してどこか遠くからやってきたものに違いありません。経典の文字や「よきひと」の声がこれらのメッセージを運んでくるのです。

これが「気づき」ということです。気づきはあるとき突然起こりますが、でもそれにはかならずきっかけがあります。印象的なのが法然の場合で、彼は比叡山・黒谷の経蔵で善導の『観経疏』を読んでいたとき、その一節、「一心に弥陀の名号を専念して、行住坐臥、時節の久近をとはず、念々に捨てざるをば正定の業と名づく。かの仏願に順ずるがゆゑに」が彼の眼を射たと伝えられます。この文字が「なんぢ一心に正念にしてただちに来れ」という招喚の声を運んできたのです。


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真実信心の称名は [親鸞の和讃に親しむ(その95)]

(5)真実信心の称名は

真実信心の称名は 弥陀回向の法なれば 不回向となづけてぞ 自力の称念きらはるる(第39首)

信にともなう称名は、弥陀の回向によるからに、不回向の名でよばれては、自力念仏きらわれる。

真実信心が弥陀の回向(賜物)であることは、信心の智慧が「気づき」であることを思えば納得するのにさほど困難はありませんが(「気づき」はむこうから与えられるものですから)、さて称名念仏となりますと、これまた如来の回向であるというのはなかなかストンと落ちてくれません。信心は心の内面の出来事ですが、称名は口を動かすという身体動作ですから、これまた如来の賜物と言われても素直に頷くのが難しいのです。どんな動作であれ、そこには主体の意思がはたらくものであり、称名も「よし称えよう」と思ってはじめて声に出るわけですから、それが如来の賜物であるというのはどういうことだろうと思ってしまうのです。実際ぼくはなかなか「南無阿弥陀仏」と称えられないままでした。何か抵抗する力がはたらいて「南無阿弥陀仏」が口をついて出てくれないのです。ぼくにはこの「不回向」というのが長い間腑に落ちなかった。

それがいつからでしょうか、仏壇に向かって自然に「南無阿弥陀仏」と称えるようになりました。それは思うに、如来から「お前を待っているぞ」という声がはっきり聞こえるようになったということでしょう。それまでは本願名号を頭では了解するものの、骨身に沁みては感じていなかったに違いありません。ところがいつしか「お前を待っているから、いつでも帰っておいで」の声が鮮やかに聞こえるようになったのです。そうしますと、それにもう応答せざるを得なくなります、「ありがとうございます」と。こんな自分が「待ってもらっている」という気づきがありますと、「これほどありがたいことはない」という思いが自然にわきあがってきます。そしてその思いが「南無阿弥陀仏」という声となっておのずから口をついて出るようになったのです。これが「仏恩報謝の念仏」と言われるものでしょう。


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如来の作願をたづぬれば [親鸞の和讃に親しむ(その94)]

(4)如来の作願をたづぬれば

如来の作願をたづぬれば 苦悩の有情をすてずして 回向を首としたまひて 大悲心をば成就せり(第38首)

悲願のもとをたずねれば、苦悩の衆生をすてられず、回向を旨としたまいて、大悲心をば完成す

すぐ前のところで『歎異抄』第9章の「他力の悲願は、かくのごときわれらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり」ということばを見ましたが、それがここで「苦悩の有情をすてずして 回向を首としたまひて」と詠われています。如来はひとえにわれらの救いを願い(作願し)、われらはひとえに如来に願われているということ、これが「回向を首としたまひて」ということばで言われているのです。われらももちろん救いを願わずにはいられませんが、それは如来から願われているからであり、あくまで如来の願いが「首」(第一)であるということです。

しかし「ほとけのいのち」はひとえに「わたしのいのち」のことを願いつづけているとはどういうことでしょう。

「ほとけのいのち」とは「無量のいのち」であり、そのなかにあらゆる「わたしのいのち」が包摂されています。「ほとけのいのち」とは言うものの、それは「わたしのいのち」とは別にどこかにあるものではなく、すべての「わたしのいのち」を包み込むものですから、それは「わたしのいのち」そのものであると言わなければなりません。としますと、「ほとけのいのち」の願いとは「わたしのいのち」の願いの他にはなく、「わたしのいのち」が救われることが「ほとけのいのち」が救われることです。第18願の「もし生れずは、正覚を取らじ(若不生者、不取正覚)」は、「わたしのいのち」が救われなければ「ほとけのいのち」の救いもないということです。

少年・釈迦のことばとして「あわれ、生きものは互いに食みあう」が伝えられていますが、これは「わたしのいのち」たちは互いに食みあう宿命にあることを「ほとけのいのち」が「あわれ」に思っているということです。そんな自他相剋のなかにある有情を見捨てることなく、「回向を首としたまひて」つねにその救いを願っているのが「ほとけのいのち」です。


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無明長夜の灯炬なり [親鸞の和讃に親しむ(その93)]

(3)無明長夜の灯炬なり

無明長夜(じょうや)の灯炬(とうこ)なり 智眼(ちげん)くらしとかなしむな 生死大海の船筏(せんばつ)なり 罪障おもしとなげかざれ(第36首)

(格調が高すぎて、訳不能)

これは親鸞の兄弟子にあたる聖覚の文「無明長夜の大いなる灯炬なり、なんぞ智眼のくらきことを悲しまん。生死大海の大いなる船筏なり、あに業障のおもきことを煩はんや」に由っています(この文は『尊号真像銘文』の「法印聖覚和尚の銘文」のなかにあります)。同じ趣旨のことばとして『教行信証』の序に「難思の弘誓は難度海を度する大船、無礙の光明は無明の闇を破する恵日なり」とありますが、灯炬(恵日)や船筏(大船)は弘誓を譬えるのにぴったりです。このことばは、すでに弘誓に遇うことができた人が、それを「無明長夜の灯炬」や「生死大海の船筏」に譬え、自分や同朋に向かって「智眼くらしとかなしむな」、「罪障おもしとなげかざれ」と言っていると理解すべきでしょう。それを裏返して言いますと、すでに弘誓に遇うことができたとしても、「智眼くらしとかなし」み、「罪障おもしとなげ」く自分がいるということです。

思い出すのが『歎異抄』第9章です。「念仏申し候へども、踊躍歓喜のこころおろそかに候ふこと、またいそぎ浄土へまゐりたきこころの候はぬ」はどうしたことでしょうと問いかける唯円に対して、親鸞はこう答えていました、「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり」と。そして「踊躍歓喜のこころおろそか」であるのも「いそぎ浄土へまゐりたきこころの候はぬ」のも、みな「煩悩の所為」であり、「他力の悲願は、かくのごときわれらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり」と言うのです。正信偈にもありますように、弘誓に遇うことができても「貪愛・瞋憎の雲霧、つねに真実信心の天を覆」っています。しかし「貪愛・瞋憎の雲霧」を悲しむことはありません、「かくのごときわれらのために」、「無明長夜の灯炬」・「生死大海の船筏」が用意されているのですから。

難思の弘誓に遇いながら、日々、つまらぬことにくよくよしている自分がいます。そんな自分に「ああ、どうしてこんなことに煩わされているのか」と悲しくなりながら、「他力の悲願は、かくのごときわれらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆる」のです。


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智慧の念仏うることは [親鸞の和讃に親しむ(その92)]

(2)智慧の念仏うることは

智慧の念仏うることは 法蔵願力のなせるなり 信心の智慧なかりせば いかでか涅槃をさとらまし(第35首)

南無阿弥陀仏いただくは、本願力のなせるわざ。信心の智慧なかりせば、いかでかさとりひらけよか。

「智慧の念仏」、「信心の智慧」と言われ、念仏も信心も智慧に他ならず、それは「法蔵願力」により賜るものであることが詠われます。知識はわれらが獲るものですが、智慧は如来から賜るものであるということ、ここに思いを潜めてみましょう。知識はわれらの努力により獲る(ゲットする)ことができますが、智慧はこちらからどれほど獲たいと思っても獲られるものではありません。それはあるとき思いがけず賜るものです。智慧はわれらがそれをゲットするのではなく、逆にわれらがそれにゲットされるのです。気がついたらもうその智慧のなかにいるのです。ではそれはどのようなものかと言いますと、如来は自分を「待ってくれている」という気づきです。

「希望という名のあなたをたずねて」という懐かしい歌を思い出しました。われらは希望があるから生きることができるのは確かですが、その希望には二種類あるのではないでしょうか。一つは普通の希望で、われらが何かを「待つ」ということです。きっと何かに会えるに違いないと思ってそのときをじっと待つ。もちろん何もしないでただ待つわけではありません、何とかして会いたいと思い、「あなたをたずねて、遠い国へとまた汽車に乗る」のです。しかし希望にはもう一つあります。それは誰かが自分を「待ってくれている」ということです。自分が誰かを「待つ」のでなく、逆に誰かが自分を「待ってくれている」。「信心の智慧」というのは、如来が自分を「待ってくれている」ことに気づくことです。

如来が自分を「待ってくれている」ことは、あるときふと気づかされます。「お前を待っているぞ」という声が聞こえてくるのです。これがひとたび聞こえれば、もうこの希望が消えることはありません。誰かを「待つ」という希望は、どれほど待っても会えないと、もろくも崩れるものですが、如来が「待ってくれている」という希望は、どんなことがあっても崩れることはありません。


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真実信心うるゆゑに [親鸞の和讃に親しむ(その91)]

第10回 正像末和讃(2)

(1)真実信心うるゆゑに(三時讃のつづき)

真実信心うるゆゑに すなはち定聚(じょうじゅ、正定聚)にいりぬれば 補処(ふしょ、次の世に仏処を補う地位)の弥勒におなじくて 無上覚をさとるなり(第28首)

真実の信えたときに、正定聚につくからは、補処の弥勒とおなじにて、無上覚をばさとるなり。

信心を得た人は「弥勒におなじ」と詠われます。親鸞は、その一方で信心の人は「ほとけとひとし」と言い、「おなじ」と「ひとし」をきっちり使い分けています。弥勒とは「かならず仏となるべき身」(正定聚であり、また一生補処)であるという点で「おなじ」であるのに対して、仏とは、未だ仏ではありませんから「おなじ」とは言えませんが、でもかならず仏になるのですから、もう仏と「ひとし」いと言うのです。弥勒は五十六億七千万年(何という数字でしょう)の後に仏になることが定まっていますが、そのように信心の人もまたいずれ「かならず仏となる」ことが定まっているのですから、「仏とひとし」と言われます。これは先の和讃(第23首)で「煩悩・菩提一味なり」と詠われたのと同じ事態を指しています。煩悩をもちながら「菩提と一味」であるということは、煩悩具足のままで「仏とひとし」ということです。しかし煩悩具足の凡夫が「仏とひとし」などというのは途方もないことです。これをどう理解すべきでしょう。

すでに述べましたように、本願に遇うことで煩悩を煩悩と気づかせてもらったということは、煩悩の外部すなわち菩提があることに気づいたということです。煩悩を煩悩と気づかないままでしたら、それに外部があるなどと思うことなく、いつまでも煩悩のなかに閉ざされたままです。それは闇を闇と気づきませんと(たとえば生まれてこのかたずっと光の差さない深海にいる魚のように)、その世界に外部があるとはつゆ思わず、これが唯一の世界だと思って一生を過ごすのと同じです。ところがあるとき「これまで煩悩のなかに閉ざされて生きてきたのか」と気づかされますと、「ああ、これには外部があるのだ」と思い至ります。もちろん、そう思ったからといって、その外部に出られるわけではなく、依然として煩悩の内部にいるのですが、でもその外部があり、このいのちが終われば外部に出ることができると気づくだけで、もうすでにその外部に出たに等しい解放感をえることができます。これが「仏とひとし」ということに他なりません。


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弥陀智願の回向の [親鸞の和讃に親しむ(その90)]

(10)弥陀智願の回向の

弥陀智願の回向の 信楽まことにうるひとは 摂取不捨の利益ゆゑ 等正覚(とうしょうがく)にいたるなり(第25首)

弥陀の大悲の回向にて、まことの信をえるひとは、ひかりのなかに包まれて、等正覚を生きるなり

本願力により本願の信(気づき)を得た人は、摂取不捨の利益にあづかり、等正覚の位につくことができると詠います。これまで信心(本願の気づき)を得た人のありようを表すことばとして摂取不捨、正定聚、不退などいろいろ出てきましたが、ここで等正覚がはじめて登場します。正覚と同じ意味でつかわれる場合もありますが、ここでは正覚の一つ手前を指します。菩薩道に52階位あり、第52階位が仏の正覚、第51階位が等正覚ですから、あと一歩で仏という菩薩としては最高の境位のことです。しかし、本願の信をえたそのときに、菩薩の最高階位である等正覚につくというのは、大乗仏教の菩薩道の常識からして途方もないことと言わなければなりません。菩薩はさまざまな修行を積むことで一歩一歩その階位を上げていくと信じられているのに、いきなり等正覚に至ると言うのですから。

この違いを親鸞は「竪と横」というコントラストで示します。

竪に進むか、横にひとっ跳びするか、ということですが、これを時間的に言い表しますと、「これから」と「もうすでに」となります。前を見据えて「これから」一歩一歩進んでいこうとするのと、気がついてみると「もうすでに」跳び越えてしまっていたという違いです。親鸞お好みの「涅槃のかどに入る」(「涅槃のかど」が等正覚です)という言い回しをつかいますと、「これから」涅槃のかどに入ろうとするのと、気づいたときには「もうすでに」涅槃のかどに入ってしまっていたという違いになります。これが自力と他力のコントラストです。「涅槃のかど」を前に見て、「よし入るぞ」と決意して進んでいくのが自力(竪)で、ふとふり向くと後ろに「涅槃のかど」があり、「ああ、もう入ってしまっていたのか」と気づくのが他力(横)です。「涅槃のかど」を前に見ている人からしますと、それははるか彼方にありますが、ふり向いて「涅槃のかど」に気づいた人としますと、それはいきなりのことです。

(第9回 完)


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