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帰命とは [『観無量寿経』精読(その97)]

(7)帰命とは

 「聞く」ものとしては「名」あるいは「名号」でいいのですが、「称える」ものとしては「名」である阿弥陀仏だけでは具合が悪く、「南無阿弥陀仏」としなければならないということです。このように名号として「南無阿弥陀仏」が登場しますと、それは『大経』にもさかのぼることになり、かくして名号と言えば「南無阿弥陀仏」となっていったものと思われます。そして、これが重要ですが、それに伴って名号というのはわれらが「称える」ものに決まっているという思い込みが生まれ、それを「聞く」ことがどこかに置き忘れられてしまいます。
 そのことに気づかせようと終生意を注いだのが親鸞です。名号は何をおいてもまず「聞く」ものであり、それを「称える」ことは「聞く」ことにおのずから伴うものであることをさまざまなかたちで言いつづけました。そのクライマックスと言うべきものが『教行信証』「行巻」で展開された六字釈です。親鸞は善導の六字釈をもとに、「南無」とは「帰命」の意であるとした上で、帰命の意味を詳しく探っていきます。帰命とは「命に帰す」ことですから、われらが如来の仰せに素直に随うことであると受けとるのが普通ですが、親鸞は思いもかけない意味を取り出してくるのです。
 まず「帰」という文字の意味を考えるために、『詩経』から「帰説」という熟語を取り出してきます。これは「きえつ」と読み、この「説」は「悦」の意味です。「説」を悦ぶと読む例としては『論語』の「学びて時に之れを習う、また説(よろこ)ばしからず乎」があります。そして「帰説」はまた「きさい」とも読み、この場合の「説」は「税(さい)」の意味で、「家でゆっくり寛ぐ」ということです。そこから親鸞は「帰説(きえつ)」とは「よりたのむ」こと、「帰説(きさい)」とは「よりかかる」ことであると注釈します。そして「説」にはもともと「告げる」「述べる」の意味がありますから、「よりたのめ」「よりかかれ」と「告げる」「述べる」ということになります。
 かくしてわれらが如来に帰すより前に、如来がわれらに帰せよと呼びかけているという意味を取り出してくるのです。

タグ:親鸞を読む
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