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如来大悲の恩徳は [親鸞の和讃に親しむ(その100)]

(10)如来大悲の恩徳は

如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし 師主知識の恩徳も ほねをくだきても謝すべし(第59首)

(これは恩徳讃として親しまれているうたですので、そのままにしておきます)

三時讃の末尾に置かれた有名な恩徳讃です。ここでわれらがそれに報謝しなければならない恩徳に「如来大悲の恩徳」と「師主知識の恩徳」のあることが詠われていますが、この関係をどう考えればいいでしょう。それは、これまでも述べてきたことですが、「お前を待っているから、いつでも帰っておいで」という呼びかけの大元は「如来大悲」にあるものの、しかしそれは直接には「師主知識」からやってくるということです。『歎異抄』第2章に「親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひとの仰せをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり」とあります。ここに親鸞の信心のありようが凝縮されて示されていますが、この「弥陀にたすけられまゐらすべし」は言うまでもなく「よきひと(法然)」の仰せです。しかし親鸞が「たとひ法然聖人にすかされまゐらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ」などと驚くべきことを言うことができるのは、彼がこの仰せを通して如来の「われにたすけられまゐらすべし」という仰せを聞いているからです。

「お前を待っているから、いつでも帰っておいで」の呼び声は紛れもなく「如来大悲」からやってきます。しかしそれは直接われらに送られるのではなく、「師主知識」を通じてひとり一人に届くのです。そのことは再び『歎異抄』第2章にこんなふうに言われています、「弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教虚言なるべからず。仏説まことにおはしまさば、善導の御釈虚言したまふべからず。善導の御釈まことならば、法然の仰せそらごとならんや。法然の仰せまことならば、親鸞が申すむね、またもつてむなしかるべからず候ふか」と。弥陀の本願は釈迦に届けられ、それはまた善導に送られ、そしてさらに法然にリレーされて、わたし親鸞のもとに届いたということです。親鸞が「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」(同、後序)と言うのは、五劫思惟の願はわたし一人に届けられたものであるということに違いありません。だからこそ「このうへは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからひなり」(同、第2章)と言うのです。

(第10回 完)


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