SSブログ
「『証巻』を読む」その73 ブログトップ

如来よりたまはりたる信心 [「『証巻』を読む」その73]

(10)如来よりたまはりたる信心

『歎異抄』の後序に紹介されているエピソードを手がかりにしましょう。まだ承元の法難がやってくる前の吉水の草庵でのことです、「親鸞、御同朋の御中にして御相論のこと候ひけり」とあります。それは親鸞が「善信(親鸞です)が信心も、聖人(法然です)の御信心も一つなり」と述べたことで、「勢観房・念仏房なんど申す御同朋達、もつてのほかにあらそひたまふ」ことになったという出来事です。この人たちにしてみれば、まだ念仏門に入って間もない親鸞が、もう念仏の道を歩んで何十年という法然聖人とその信心がひとつであるなどということはありえないということでしょう。しかし親鸞は「聖人の御智慧・才覚ひろくおはしますに、一つならんと申さばこそひがごとならめ。往生の信心においては、まつたく異なることなし、ただ一つなり」と主張して折あいがつかず、結局、法然聖人の裁断を仰ぐことになります。

法然聖人の答えはこうでした、「源空(法然です)が信心も、如来よりたまはりたる信心なり。善信房の信心も、如来よりたまはらせたまひたる信心なり。さればただ一つなり」。ここに還相の菩薩の真実の智慧がきらりと輝いています。

親鸞にとって法然は「一切衆生を教化して、ともに仏道に向かへしむる」(『論註』)はたらきをする還相の菩薩ですが、しかし法然にとって、自分の信心も親鸞の信心も「如来よりたまはりたる信心」であり、自分の力で親鸞に信心を授けているわけでは毛頭ないということです。本願を信じ念仏を申すようになるのは、ひとえに弥陀の本願力によるのであり、自分が自分の力で人を教化して仏道に向かえしめているのはない、これが「作にあらず」ということです。そして「作にあらず」であるからこそ、よく「一切衆生を教化して、ともに仏道に向かへしむる」ことになるのであり、したがって「非作にあらず」です。これが菩薩は「作にあらず非作にあらざる」ということです。

法然としては「如来よりたまはりたる信心」を慶び、その慶びを人に語っているだけですが(作にあらず)、それを聞いた親鸞は、そのなかから如来の招喚を受けたのです(非作にあらず)。

(第7回 完)


タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
「『証巻』を読む」その73 ブログトップ