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千歳の闇室に、光もししばらく至れば [「信巻を読む(2)」その139]

(5)千歳の闇室に、光もししばらく至れば

五逆・十悪などという悪業を造ってきたものが、どうして名号を十念するだけで救われるのか、業の道理から言えば、地獄に堕ちるのが当然ではないか、という問いに対して、曇鸞は「五逆」と「十念」がどのようにして生ずるかを比較することで答えようとします。それを表に整理してみましょう。

        〈五逆〉              〈十念〉

在心  虚妄顛倒の見によりて(生ず)  善知識の実相の法を聞かしむるによりて

在縁  みづからの妄想の心によりて   信心と無量功徳の名号によりて

在決定 有後心・有間心によりて     無後心・無間心によりて

お世辞にも分かりやすいとは言えませんが、曇鸞がここで言おうとしていることを探っていきたいと思います。この比較から見えてきますのは、五逆の人が十念せんと思うようになることについて、そこには大きな飛躍があるということです。まず、これまで五逆を積み重ねてきた人は「虚妄顛倒の見」にあり、「妄想の心」にあったということですが、これは「わたしのいのち」の囚われのなかにあったということでしょう。その我執のなかで悪業を重ねてきたのですが、臨終に至り善知識の勧めがあって、そのとき「念仏申さんとおもひたつこころ」(『歎異抄』第1章)がおこったのです。

これまで「わたしのいのち」に囚われていた人に、「ほとけのいのち」の気づき(これが信心です)がおこったということです。「わたしのいのち」は「ほとけのいのち」に生かされているという気づき、いや、「ほとけのいのち」が「わたしのいのち」を生きているという気づきが起こった。これはまさに「たとへば千歳の闇室に、光もししばらく至れば、すなはち明朗なるがごとし」です。「闇、あに室にあること千歳にして去らじといふことを得んや」と言わなければなりません。

念のためにひと言。十念することが善因となって往生という善果を生んだのではありません。「千歳の闇室に、光もししばらく至る」こと自体が、取りも直さず往生することに他なりません。光至ること(信心のおこること)と往生することはひとつであり、光あるところに往生あり、往生あるところに光ありです。


タグ:親鸞を読む
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