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第6回、本文4 [「『証巻』を読む」その59]

(8)第6回、本文4

菩薩の行の特徴の二つ目です。

〈二つには、かの応化(おうげ)(しん)、一切の時、前ならず後ならず、一心一念に大光明を放ちて、ことごとくよくあまねく十方世界に至りて、衆生を教化す。種々に方便し、修行所作して、一切衆生の苦を滅除するがゆゑに、偈に《無垢荘厳の光、一念および一時に、あまねく諸仏の()(説法の会座)を照らして、もろもろの群生を利益す》といへるがゆゑに〉(浄土論)と。(かみ)に(一つ目の文に)不動にして至るといへり。あるいは至るに前後あるべし。このゆゑに、また一念一時無前無後とのたまへるなり。

一つ目は、もし還相の菩薩がみずから十方世界の一つひとつに赴いて衆生教化のはたらきをするとしますと(賢治の「雨ニモ負ケズ」にありますように、東西南北に駆けつけなければならないとしますと)、あまねく一切の衆生を済度することは難しくなるかもしれませんから、「身本処を動ぜずして、よくあまねく十方に至る」とされたのでした。これは日みずからは動ずることなく、その光があまねく十方を照らすことに譬えられましたが、さてしかし地上に昼と夜があるように、日の光といえども十方世界を照らすに時間的な前後があります。そこで二つ目に「一切の時、前ならず後ならず」と言われることになります。とにかく一切の衆生をあまねく、漏れなく、しかも前後なく済度したいという還相の菩薩の強い願いが示されています。

このように見てきますと、還相の菩薩というのは、十方世界のあらゆる衆生を済度せずには居ても立ってもいられない人のように見受けられます。それが菩薩としての義務だからなどということではなく、もうそうしないではいられないというような感じです。何度も言うようで恐縮ですが、実際に十方世界のあらゆる衆生を済度することができるわけではありません。そもそも救いというものは、その人自身が本願に「遇ひがたくしていま遇ふことを得」ることによってしかもたらされず、還相の菩薩がどれほどシャカリキになったところで何ともなりません。そんなことは百も承知の上で、にもかかわらず、一切衆生の救いを願わずにはいられないというのはどういうことでしょう。


タグ:親鸞を読む
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