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浄土とは [『教行信証』「信巻」を読む(その139)]

(10)浄土とは

さらに『論註』からの引用と『浄土論』の引用です。

またいはく、「浄入願心といふは、『論』にいはく、〈またさきに観察荘厳仏土功徳成就・荘厳仏功徳成就・荘厳菩薩功徳成就とを説きつ。この三種の成就は、願心の荘厳したまへるなりと知るべし〉といへりと。〈知るべし〉とは、この三種の荘厳成就はもと四十八願等の清浄の願心の荘厳したまふところなるによりて、因浄なるがゆゑに果浄なり、因なくして他の因のあるにはあらざるなりと知るべしとなり」と。以上

また『論』にいはく、「出第五門といふは、大慈悲をもつて一切苦悩の衆生を観察して、応化の身を示して、生死の園、煩悩の林のなかに回入して、神通に遊戯(ゆげ)し、教化地に至る。本願力の回向をもつてのゆゑに。これを出第五門と名づくとのたまへり」と。以上

まずはことばの説明から。一つ目の文にある「浄入願心」ということばは、曇鸞が『浄土論』の「長行」を注釈するにあたり章立てをしている一つの章の名です。意味は「浄土の浄らかな設え(荘厳と言われます)は、みな法蔵菩薩の浄らかな願心におさまる」ということです。法蔵の願心が因となって、浄土のすべての荘厳という果が生まれるということです。

次に、二つ目の文にある「出第五門」は、礼拝・讃嘆・作願・観察・回向の五念門(五行)のそれぞれを修めて得られる五功徳門(五利益)の一つで、前の四つの近門(ごんもん)・大会衆門(だいえしゅもん)・宅門・屋門が「入」すなわち自利(往相)に当たり、最後の園林遊戯地門(おんりんゆげじもん)が「出」の第五門で、これが利他(還相)に当たるわけです。

一つ目の文から考えたいと思いますのは、そもそも浄土とは何かということです。すぐ前のところでこちらに娑婆があり、ここではないどこかに浄土があるというように、二つの世界が並列してあるのではないと言いました。では浄土とはいったい何かということになりますが、この根本的な問題を考える手がかりを一つ目の文が与えてくれていると思うのです。


タグ:親鸞を読む
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