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動乱破壊せられず [『教行信証』「信巻」を読む(その70)]

(8)動乱破壊せられず


 一つ前の文にすでに「この心深信せること金剛のごとくなるによりて、一切の異見・異学・別解・別行の人等のために動乱破壊せられず」とありましたが、それをここでさらに詳細に論じています。「異見・異学・別解・別行の人等」がやってきて、「どうして十悪五逆の凡夫が念仏するだけで往生できるのか、そのようなものは悪道に堕ちるに決まっているではないか」と悪態をついてきたとしても、まったく「動乱破壊」されることはないということです。実際、このような論難が道綽・善導の時代にありました。「摂論宗」(しょうろんしゅう、無着の『摂大乗論』に依る宗派で、のちに法相宗に吸収されます)の人たちが、十悪五逆の凡夫も十念の念仏で往生できるという『観経』解釈を激しく攻撃しており、道綽は『安楽集』においてこれに反論しています。


彼らの主張はこういうものでした。確かに『観経』は最後のところで十悪五逆の下品下生のものも臨終に十念の念仏を申すことで往生できると説いているが、あれはあくまで人々の心を仏法に繫いでおくための方便にすぎず、臨終に十念の念仏をしてすぐさま往生できるなどということはありえない、往生できるのはずっと先(別時)のことであるというのです。これを「別時意説」と言いますが、善導はこの論難を正面から受けて立っているのです。ここで述べられているのは、どんな論難を受けてもそれに動乱破壊されない深い信心が大事だということです。


ここを読んで頭に浮ぶのは『歎異抄』第2章です。親鸞は「十余箇国のさかひをこえて、身命をかへりみず」に関東からやってきた人たちにこう言います、「親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひとの仰せをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり」と。そして驚くのがそれにつづく「たとひ法然聖人にすかされまゐらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ」ということばです。これこそどんな批難にも動乱破壊されない深信というものでしょうが、さてどこからこのような堅固な信心が生まれてくるのでしょうか。



タグ:親鸞を読む
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