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還相回向 [『教行信証』「信巻」を読む(その80)]

(8)還相回向


「つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり」と言うとき、往相回向も還相回向もみな如来の回向であるということ、ここに『教行信証』の核心があります。往相について言いますと、われらが自らの往生を願うことができるのは、それに先立って如来がわれらの往生を願ってくださっているからであるということです。願われているから願うことができる、これが如来回向ということです。では還相はどうかと言いますと(これが主題となるのは「証巻」の後半になりますが)、往相と同じく、われらが他の一切衆生の往生を願うことができるのも、それに先立って如来が一切衆生の往生を願ってくださっているからということです。往相回向も還相回向もみな如来から賜ったものです。


さて善導は「回向といふは、かの国に生じをはりて、還りて大悲を起して、生死に回入して衆生を教化する」と言いますが、これで見ますと、まず往相回向があり、しかる後に還相回向という順序があります。これは往相も還相もわれら行者の回向という前提があるからで、われらが回向発願するとなりますと、まず自らの往生を願い、しかる後に他の一切衆生の往生を願うという順序にならざるを得ません。まず自分が救われなければ、他を救うことはできないからで、まず自分が浄土へ往き、そしてまた娑婆に還ってくるというUターン型になります。しかし往相も還相もみな如来の回向であるとしますと、そのような順序は問題になりません。往相と還相は同時であり、往相はそのままですでに還相です。


それをわれらの側からいいますと、貪愛・瞋憎の水火のなかにありながら、弥陀の光明に摂取不捨されていると憶念することが(これが往相ですが)、そのままで他の一切衆生もまた弥陀の摂取のなかにあると憶念することです(これが還相です)。われらの回向発願心はもともと如来の回向発願心ですから、それに「わたし」はありません、「われみなともに往生せん」という願いです。



タグ:親鸞を読む
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