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夢と他力 [『ふりむけば他力』(その91)]

(15)夢と他力

 一方、これは夢であると気づきますとどうでしょう。何度も言いますように、そう気づいたからといって我執の夢から覚めるわけではなく、これまで同様、夢のなかで我執にもがき苦しまなければならないのですが、でもこれは夢だと思うことができますと、もうそれに囚われることはなくなります。我執というのは囚われに他なりませんから、我執に囚われることがなくなるというのは何か矛盾したことを言っているようですが、でも実際そう言うしかなく、囚われの事実に気づきますと、それをカッコに入れて見ることができるようになります。ぼくが誰かに激しい怒りを抱いたとします。「このやろう、絶対に許せん」と怒りに震えながら、同時に、「ああ、これは我執という囚われのなかにいるのだ」と気づきますと、怒りながら怒りをカッコに入れることができるのです。
 以上、われらは真如の世界(我執の夢から目覚めた世界)に気づいたとしても、その世界を知ることができるわけではないことを見てきました。これまでの長い歩みを整理しておきますと、近代科学の因果と仏教の因果(縁起)は似て非なるものであることを考えてきました。そして第一の相違点として前者は不可逆であるのに対して後者は可逆であること、次いで第二の相違点として前者はわれらが世界のありようを「知る」ことであるのに対して後者はそのありようを「知る」ことはできず、ただその存在に「気づく」だけであることを確認してきました。
 さてそこで問題は他力です。すでに第3章で縁起とは実は他力に他ならないことを述べました。そしてそこで得られた結論は、「わたしのいのち」は「ほとけのいのち」のなかで生かされて生きているということ、これが縁起の気づきであり、そしてそれが他力の気づきであるということでした。その意味がここにきてより鮮明になったと言えます。われらが生きることは、そんなこととはつゆ思わないまま、「わたしのいのち」という夢を見ているということです。ところがあるとき、不思議な光がさし込み、これはすべて特別な夢であることに気づかされます。そしてそのとき思うのです、「ああ、これは『ほとけのいのち』の中で『わたしのいのち』の夢をみているのだ」と。孫悟空は自由自在に飛んだり跳ねたりしていますが、あるときふと、すべてはお釈迦さまの掌の上で夢を見ているのだと気づくのです。

                (第7章 完)

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