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広大勝解のひと [「『正信偈』ふたたび」その44]

(4)広大勝解のひと

さて第三句に、如来の弘誓願を聞信したひとは「仏、広大勝解のひととのたまへり」と言われます。

「広大勝解のひと」というのは「広大にして勝れた智慧をもつひと」ということですが、すぐ前のところで、善人であれ悪人であれ、みな愚かな凡夫人である(「一切善悪の凡夫人」)と言われたばかりなのに、その凡夫人が如来の弘誓願を聞信すれば「広大勝解のひと」と言われるのです。本願を聞信することで愚かな凡夫が急に勝解の人になるのでしょうか。そんなマジックが起こるはずはなく、凡夫は死ぬまで凡夫です。では何が起こるのかといいますと、本願を聞信するとき、仏智という勝れた智慧に遇うことができるのです。勝れた智慧とは本願そのものに他なりませんが、本願という勝れた智慧がわが身にはたらきかけていることを感じる、これが仏智に遇うということであり、そのときわれらは仏智に包み込まれているのです。

如来の弘誓願に遇うとき「わたしのいのち」は「わたしのいのち」のままで「ほとけのいのち」のなかで生かされていることに目覚めますが、それは凡夫が凡夫のままで仏智のなかに包み込まれるということです。

凡夫は死ぬまで凡夫であることをやめることができないことを親鸞は『一念多念文意』において次のように容赦なく、これでもかと突きつけてきます、「凡夫といふは無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまで、とどまらず、きえず、たえず」と。しかし本願に遇うことができますと、そのようなどうしようもない凡夫であるままで仏智に包まれて生きることができるのです。いや、こう言うべきでしょう、自身は「欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほく」と言うことができるのは、仏の勝れた智慧に包まれているからです。自身の「愚かさ」の気づきと仏の「勝れた智慧」の気づきはひとつです。


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