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ただ念仏して、弥陀にたすけられまゐらすべし [『歎異抄』ふたたび(その66)]

(4)ただ念仏して、弥陀にたすけられまゐらすべし

 「親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひとの仰せをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり」と第2章にありました。親鸞にとって「よきひと」すなわち師(善知識)とは、「ただ念仏して、弥陀にたすけられまゐらすべし」という浄土の教えを伝えてくれる人であり、自分としてはただそれを信ずるだけのことだと言うのです。これはごく自然な麗しい師弟関係ということができますが、しかし、いまこの第6章で問題となっているのは、信心は「如来よりたまはる」ということです。浄土の教えを受けるのは「よきひと」からですが、信心をたまわるのは「如来」からであり、決して「よきひと」からではないということ、これをよくよく考えなければなりません。
 先の文につづいて「たとひ法然聖人にすかされまゐらせて、念仏して地獄におちたちとも、さらに後悔すべからず候ふ」という驚くべきことばが出てきました。こんな途方もないことばはただの麗しい師弟関係から出てくるはずはありません。どれほど師への信頼が厚かろうと、ここまで言うのは度を過ぎていると言わざるをえません。しかしこのことばがわれらの心にドシンと届くのは、そこに「如来よりたまはりたる信心」があるからです。親鸞は「よきひとの仰せ」をかぶるなかで、信心を「如来よりたまはる」ことができたからこそ、こんな破天荒なことを言えたのです。
 信心とは何か。もちろん「ただ念仏して、弥陀にたすけられまゐらすべし」と信じることです。しかし「よきひと」から「ただ念仏して、弥陀にたすけられまゐらすべし」という仰せを聞くことと、「ただ念仏して、弥陀にたすけられまゐらすべし」と信じることの間には大きな溝があり(「信楽受持甚以難、難中至難無過斯」です)、その溝を埋めるのは「弥陀のよびごえ」だけです。「ただ念仏して、弥陀にたすけられまゐらすべし」というのは「よきひとの仰せ」ですが、「ただ念仏して、われにたすけられまゐらすべし」が「弥陀のよびごえ」です。「ただ念仏して、弥陀にたすけられまゐらすべし」という「よきひとの仰せ」から、「ただ念仏して、われにたすけられまゐらすべし」という「弥陀のよびごえ」が聞こえてくること、これが信心です。

タグ:親鸞を読む
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