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真に対する仮と偽 [「信巻を読む(2)」その80]

(10)真に対する仮と偽

これまで真の仏弟子についてさまざまな角度から語られてきましたが、今度は仮の仏弟子と偽の仏弟子について述べられます。

仮といふは、すなはちこれ聖道の諸機、浄土の定散の機なり。

ゆゑに光明師のいはく(般舟讃)、「仏教多門にして八万四なり。まさしく衆生の機、不同なるがためなり」と。

またいはく(法事讃)、「方便の仮門、等しくして殊(こと)なることなし」と。

またいはく(般舟讃)、「門々不同なるを漸教と名づく。万劫苦行して無生(無生忍)を証す」と。以上

偽といふは、すなはち六十二見・九十五種の邪道これなり。

『涅槃経』にのたまはく、「世尊つねに説きたまはく、〈一切の外(外道)は九十五種を学びて、みな邪道に趣く〉」と。以上

光明師のいはく(法事讃)、「九十五種みな世を汚す。ただ仏の一道のみ独り清閑(しょうげん)なり」と。以上

真仏弟子釈のはじめにこうありました、「『真の仏弟子』といふは、真の言は偽に対し仮に対するなり」と(第5回、1)。それを受けて、では仮の仏弟子とは誰であり、偽の仏弟子とは誰のことかについて明らかにしておこうということです。もっとも、真の教えに対する仮の教えと偽の教えの問題を本格的に扱うのは「化身土巻」であり、ここでは真の仏弟子に対する仮の仏弟子と偽の仏弟子について述べるだけです。

さて親鸞は法然浄土教の精神を真っ当に受け継ごうとしたのは間違いありませんが、それを後世のわれらが見るとき、法然と親鸞の間にはやはり違いがあると言わざるを得ません。その一つが、この箇所によくあらわれています。法然浄土教の特徴をひと言でいえば「選択」です(それは彼の『選択本願念仏集』という書名にはっきり出ています)。すなわち「これを取り、あれを捨てる」という廃立(はいりゅう)の立場が鮮明です。法然には温厚というイメージがありますが、『選択集』を読みますと、念仏以外の教えに対してきわめて苛烈であると言わざるを得ず、それが聖道門から強い反感を買うことになります。明恵然り、日蓮然りです。


タグ:親鸞を読む
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