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8月3日(水) [矛盾について(その365)]

 「いまだ救われていないが、もうすでに救われている」というのは紛れもない矛盾ですが、その矛盾にこそ真実があります。
 「いまだ救われていない」から、将来に救いを求めます。将来の救いを希望として掲げることで、救われていない現実を耐えることができるのです。でもその希望がかなえられる兆しが全く見えませんと、くじけそうになって絶望に身を任せてしまうかもしれません。そんなとき「そのままでもうすでに救われている」というメッセージが力を与えてくれるのです。目の前がどんなに真っ暗でも、どこからか「そのまま生きていていい」という声が聞こえるからこそ、くじけずに前に足を踏み出せるのです。
 被災した人から「なぜあの人は死に、私は生きているのか」と問われたとき、どう答えることができるかという問いに戻ります。この人は「生きる意味」を見失ってしまったのです、「生きる希望」を失くしてしまったのです。その人に「生きる希望を持ちましょう」と言っても何の意味もありません。もう頑張れないと言っている人に「頑張りましょう」と言うのと同じで、残酷ですらあります。では何ができるのか。親鸞は「念仏まうすのみぞ、すゑとをりたる大慈悲心にてさふらふ」と述べましたが、これをぼく流に翻訳しますと、「そのままでもうすでに救われているという声を聞きながら、その人の悲しみに寄り添うしかない」となります。
 「いまだ救われていないが、もうすでに救われている」という矛盾にこそ真実があると言いました。巡りめぐって再びスタートラインに戻ってきました。この一連の長い考察は、「煩悩即菩提」という仏教の矛盾した言説にしみじみとした味わいを感じるのはどういうことだろう、矛盾したことばは文句なく虚偽としなければならないはずなのに、虚偽どころかこれこそ真実だと思えるのはどうしたことだろう、というところから出発したのでした。思えばあれから一年の歳月が流れましたが、いまこそその問いに明確な答えを与えるときです。

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