SSブログ
『教行信証』「信巻」を読む(その49) ブログトップ

三業の所修みなこれ真実心のうちになしたまひし [『教行信証』「信巻」を読む(その49)]

(8)三業の所修みなこれ真実心のうちになしたまひし


 至誠心釈の後半です。


 この雑毒の行を回してかの仏の浄土に求生せんと欲するは、これかならず不可なり。なにをもつてのゆゑに、まさしくかの阿弥陀仏、因中に菩薩の行を行じたまひし時、乃至一念一刹那も、三業の所修みなこれ真実心のうちになしたまひしに由(由の字、経なり、行なり、従なり、用なり)つてなり。おほよそ施したまふところ趣求(しゅぐ)をなす、またみな真実なり。また真実に二種あり。一には自利真実、二には利他真実なり。乃至 不善の三業はかならず真実心のうちに捨てたまへるを須ゐよ。またもし善の三業を起さば、かならず真実心のうちになしたまひしを須ゐて、内外明闇(ないげみょうあん)をえらばず、みな真実を須ゐるがゆゑに至誠心と名づく。


 ここもまた親鸞独自の読みがつづきます。自力の行によって往生することは不可である、なぜなら行をなすわれらに真実の心はなく、みな虚仮の心であるからとし、それに対して阿弥陀仏が因中になされた行はみな真実の心からであると述べられたあと、「おほよそ施したまふところ趣求をなす、またみな真実なり」とつづきますが、この部分のもとの漢文は「凡所施為趣求亦皆真実」で、これは普通には「おほよそ施為(せい)、趣求(しゅぐ)したまふところ、またみな真実なり」と読みます。すなわち法蔵菩薩が衆生に功徳を施し(施為)、みずから悟りを求める(趣求)のはみな真実の心からですという趣旨になります。しかし親鸞はこれを、法蔵菩薩から施される真実の心をいただいて浄土に生まれようと願うのですから、みな真実ですと読みます。


そこから、そのあとの「また真実に二種あり。一には自利真実、二には利他真実なり」も意味が異なってきます。前の文を「おほよそ施為、趣求したまふところ、またみな真実なり」と読みますと、これは法蔵菩薩の真実に自利の真実(趣求の真実)と利他の真実(施為の真実)があるという意味になりますが、親鸞のように「おほよそ施したまふところ趣求をなす、またみな真実なり」と読みますと、この自利真実はわれらの自利(自力)の真実で、利他真実は如来の利他(他力)の真実の意味となり、如来の利他の真実こそほんとうの真実であるという趣旨になります。



タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
『教行信証』「信巻」を読む(その49) ブログトップ