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貪愛瞋憎の雲霧 [はじめての『尊号真像銘文』(その157)]

(7)貪愛瞋憎の雲霧

 この6句で、先の「煩悩を断ぜずして涅槃を得る」というのはどういうことかを、日光と雲霧の譬えで語っています。涅槃のひかりに遇うことで、すでに無明長夜の闇ははれ、暁を迎えることができたが、空には雲や霧が覆っていて、晴天の青空というわけにはいかないと言うのです。この譬えは涅槃のひかりと煩悩の雲霧が同時にある状況を巧みに言い表しています。摂取の心光に照らされることで「煩悩を断ぜずして涅槃を得る」のですが、とはいえ文字通りの意味で「涅槃を得る」のではなく、涅槃を得ることに「さだまる」だけであり(正定聚)、涅槃を得たに「ひとし」くなるだけでした(等正覚)。依然として煩悩の雲霧は厚く垂れこめているのです。
 摂取の心光は煩悩を消してくれるどころか、煩悩を煩悩として目の前に突き付けてくるのです。そのときおのずと慙愧のこころがおこり、そこから「諸悪莫作、諸善奉行」の思いがわいてくることになります。さてしかし、こんなふうに言いますと、周囲から非難の嵐がわきあがってきそうです。浄土真宗の核心は他力の思想にあり、そこから自力無功(効)が言われ、自力作善が誡められてきたのではないかと。そこを外したらもう浄土真宗ではなくなると。もっともな言い分ですが、ただそのとき注意しなければいけないのは、摂取の心光に照護される前とその後をきっちり分けて見なければいけないということです。本願名号に遇う前と後で、ものごとの意味あいが大きく変わってしまうからです。
 「事前と事後」の補助線は不可欠です。
 自力無功ということばは本願名号を自力でゲットしようとしても無功であるということで、本願名号に遇う前のことです。自力作善も同じで、自力でさまざまな善きことをして往生をえようとするのは見当違いであるということです。本願名号はこちらからゲットするものではなく、むこうからやってきた本願名号にわれらがゲットされるのであり、そのとき摂取不捨の利益にあずかるのだと。これらはみな事前のことです。では事後はどうか。本願名号にゲットされ、摂取不捨の利益にあずかったあとに何がおこるのかといいますと、そのときこそ「諸悪莫作、諸善奉行」の生活がはじまるのです。

タグ:親鸞を読む
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