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予測としての未来 [「『証巻』を読む」その28]

(8)予測としての未来

前回の最後のところで、未来は現在における予測としてのみ存在することを確認しました。いのち終わってのちに「西方寂静無為の楽」に至るのであろうと、信をえた「いま」予測しているのです。

としますと、問題はこうなります、いのち終わったのちに「西方寂静無為の楽」に至るであろうと「いま」予測できる根拠はどこにあるのかと。たとえば、「明日は晴れるだろう」と予測するとき、その根拠は何でしょう。それは現在の気圧配置図です。より正確に言えば、過去の膨大な数の気圧配置図と現在の気圧配置図を照らし合わせることによって、明日の天気が予測できます。同じように、いのち終わったのちに滅度に至るであろうという予測の根拠も、「いま」の心の配置図にあると言うことができます。信を得た「いま」の心模様を過去のまだ信をえていないときの心模様と照らし合わせているのです。

「いま」の心模様とは正定聚としての心模様です。

これまでは「わたしのいのち」をひたすら「わたしのいのち」として生きてきましたが、「いま」本願に遇うことができ、「わたしのいのち」は「ほとけのいのち」に摂取不捨されていることに気づくことができました。「わたしのいのち」は依然として「わたしのいのち」を生きていますが、そのままで「ほとけのいのち」に生かされていると気づく、これが正定聚の心模様です。本願に遇うことを通して「ほとけのいのち」に遇うことができたのです。まだ「わたしのいのち」として生きていますが、「ほとけのいのち」に遇うことができ、その光に照らされるようになりました。

ここから「かならず滅度に至る」という予測が出てきます。「ほとけのいのち」に遇うことにより、「わたしのいのち」が終わったのちには、「ほとけのいのち」そのものになるに違いないと予測することができるのです。正定聚となり「ほとけのいのち」に遇うことと、滅度に至り「ほとけのいのち」になることはまったく別ですが、「ほとけのいのち」に遇えたことから、将来「ほとけのいのち」になるであろうと予測できるのです。


タグ:親鸞を読む
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