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薬あり毒を好め [「信巻を読む(2)」その145]

(11)薬あり毒を好め

たとえば『末燈鈔』第20通にこうあります、「煩悩具足の身なればとて、こころにまかせて、身にもすまじきことをゆるし、こころにもおもふまじきことをもゆるして、いかにもこころのままにてあるべしと申しあうて候ふらんこそ、かへすがへす不便(ふびん)におぼえ候へ」と。親鸞は、関東にも「造悪無碍」の考えのものがいるようだが、「かへすがへす不便におぼえ候へ」と歎き、その理由を次のように言います、「(無明の)酔いもさめぬさきに、なほ酒をすすめ、(三毒という)毒も消えやらぬに、いよいよ毒をすすめんがごとし。薬あり毒を好めと候ふらんことは、あるべくも候はずとぞおぼえ候ふ」と。そしてこう結論します、「仏の御名をもきき念仏を申して、ひさしくなりておはしまさんひとびとは、後世のあしきことをいとふしるし、この身のあしきことをばいとひすてんとおぼしめすしるしも候ふべしとこそおぼえ候へ」と。

「ほとけのいのち」(本願)に遇うことができ、「ほとけのいのち」に生かされていることに気づいたとき(これが善導の言う「法の深信」ですが)、同時にかならずこれまで「わたしのいのち」に囚われていたことの気づきがあります(これが「機の深信」です)。そしてその気づきは「この身のあしきことをばいとひすてん」という思いを伴います。「わたしのいのち」を生きること自体はこれまでと何も変わりませんから、また同じような悪しきことをしてしまうことはありますが、しかし悪しきことをしないでおきたいという思いになるに違いありません。間違っても「こころにまかせて、身にもすまじきことをゆるし、こころにもおもふまじきことをもゆるして、いかにもこころのままにてあるべし」と思うことはないでしょう。

このように見てきますと、「造悪無碍」に走る人は「本願があるのだから」と口では言いながら、実はまだ本願に遇うことができていないと言わなければなりません。もし遇っていれば、「この身のあしきことをばいとひすてん」と思うに違いないからです。


タグ:親鸞を読む
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