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法蔵菩薩 [『教行信証』「信巻」を読む(その34)]

(3)法蔵菩薩


 ちょっと横道にそれることになるかもしれませんが、ここで曽我量深氏の「地上の教主」という論説を参照しておきましょう(古いもので、大正2年に『精神界』に掲載されています)。曽我氏はそこでこう言います、「あり体に白状すれば、法蔵菩薩の御名は私が久しい間、もてあまして居った所の大なる概念でありました」と。これはおそらく『大経』においてどうして「法蔵菩薩の物語」が語られるのかが長い間ピンとこなかったということでしょう。はじめから阿弥陀仏を久遠の仏として説けばいいではないか、なぜ法蔵菩薩という「ひと」から話をはじめる必要があったのかということです。ところが氏はその頃、「如来は我なり」、「如来我となりて我を救い給ふ」という霊感を得て、そこから「如来我となるとは法蔵菩薩降誕のことなり」と気づいたと言います。


いやはや驚くべきことばです。これは如来と我はひとつであるという実感から出たことばですが、しかし氏は「如来は我なり」と言い、決して「我は如来なり」とは言われません。ここに大事なポイントがあります。すなわち如来と我はもともとひとつであるのではなく、如来が我となることにより我とひとつになるということです。法蔵菩薩の物語(という言い方を氏がするわけではありませんが)の意味はここにあります。もし如来がただ如来であるだけでしたら、つまり阿弥陀如来がもとから久遠の如来であるのでしたら、その如来がどれほどありがたいお方であるとしても、われらの救いとは無縁の存在でしかありません。如来が法蔵菩薩という形をとって時間のなかに現われて、はじめてわれらに救いをもたらすことができるということです。


先ほど信心の人は法蔵菩薩であると言いましたが、曽我量深氏が「如来我となりて我を救い給ふ」と言われたのはそのことです。すなわち如来はただの如来にとどまることなく、法蔵菩薩という姿をとってわれらのなかに現われることでわれらを救い給うということです。それは本願は信心という姿をとってわれらのなかに現われることによりわれらを救うはたらきをすることができるということに他なりません。法蔵菩薩の出現は昔の神話ではありません、「いまここ」で起こっている信楽開発の事実です。



タグ:親鸞を読む
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