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『教行信証』精読2(その42) ブログトップ

本文5 [『教行信証』精読2(その42)]

(10)本文5

 次も『阿弥陀経義疏』からですが、短いながら弥陀の名号がずしりと届く現場をよく伝えてくれる文です。

 またいはく、「いはんやわが弥陀は名をもつて物(衆生)を接したまふ。ここをもつて耳に聞き、口に誦するに、無辺の聖徳、識心に攬入(らんにゅう)す。ながく仏種となりて、頓に億劫の重罪を除き、無上菩提を獲証(ぎゃくしょう)す。まことに知んぬ、少善根にあらず、これ多善根なり」と。以上

 (現代語訳) またこう言われます。ましてわが弥陀は名号をもってわれらを摂取してくださいます。ですから、名号を耳に聞き、口に称えることで、名号におさめられている無上の功徳が、われらをつかみとり、こころのなかに流れ込みます。そして長く成仏の種となり、これまで積もりに積もった重罪をただちにとりのぞいてくれて、この上ない菩提をえることができるのです。名号の功徳は少ないどころか、まことに多いと言わなければなりません。

 この短い文のなかで、名号を「みみにきき、くちに誦するに、無辺の聖徳、識心に攬入す」という言い回しが見事です。攬入とは聞きなれないことばですが、攬とは「つかむ」という意味で(明治憲法に「天皇は統治権を総攬す」とあります)、ふと聞こえてきた名号に身も心も鷲づかみにされる様子を表現しています。そして名号はわれらを鷲づかみにするだけでなく、こころの中に入ってきて、内側からあたため続けてくれます。その温みはこころのなかに氷結している重罪を解かしてくれ、「かならず煩悩のこほりとけ、すなはち菩提のみづとなる」(『高僧和讃』「曇鸞讃」)のです。だから「こほりおほきにみづおほし、さはりおほきに徳おほし」(同)ということになります。
 まことに名号は「少善根にあらず、これ多善根なり」と言わなければなりません。

タグ:親鸞を読む
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