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一にあらず異にあらず [はじめての『高僧和讃』(その80)]

(23)一にあらず異にあらず

 ここで思いを潜めたいのは、川すなわち「わたしのいのち」と、海すなわち「ほとけのいのち」の関係です。両者はもちろん「一にあらず」ですが、しかし同時に「異にあらず」ということ(龍樹の「不一不異」)。
 キリスト教(ユダヤ教やイスラム教も同じです)では、人と神はどこまでも異なります。あくまでも「一にあらず」です。キリスト教の神は愛の神であり、あふれんばかりの愛をそそいでくださるのでしょうが、でも人と神は決してひとつにはなれません。どこまでも異なるものとして愛を与えてくださるのです。そもそも神はわれらの造物主であり、われらは神の被造物です。造物主と被造物との間には絶対に乗り越えられない断絶があります。しかし仏教では「わたしのいのち」と「ほとけのいのち」の間には乗り越えられない断絶などありません。もともとひとつなのです。そしてまたひとつに帰る。
 「造る」と「成る」のコントラストを考えてみましょう。
 神は人を「造る」のに対して、「わたしのいのち」は「ほとけのいのち」に「成る」ということです(これまでの譬えでいいますと、氷は水に「成り」、おたまじゃくしは蛙に「成り」ます)。さて、AがBを「造る」とき、AとBはどこまでも異なった存在です。AがBを造るということをBはAから出てくるということもできるでしょうが、出てきた以上はまったく異なる存在です。Aは造ったBを壊すことはできても、Bと一体となることはできません。
 しかしAがBに「成る」ときは、AとBは本質的にひとつの存在です。氷と水はどちらもH₂Oです。おたまじゃくしも蛙も同じDNAをもっています。だからこそ氷は水に「成り」、おたまじゃくしは蛙に「成る」のです。もちろん氷は水と「一にあらず」で、おたまじゃくしも蛙と「一にあらず」です。でも同時に、氷と水は「異にあらず」で、おたまじゃくしと蛙も「異にあらず」です。同じように、「わたしのいのち」と「ほとけのいのち」は「一にあらず」ですが同時に「異にあらず」であり、だからこそ「わたしのいのち」は「ほとけのいのち」に帰入することができるのです。

                (第4回 完)

タグ:親鸞を読む
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