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本願のリレー [『ふりむけば他力』(その121)]

(2)本願のリレー

 このように弥陀の本願は「よきひとの仰せ」を通して、その中から届けられるのですが、そのことについて親鸞はさらにこう言います、「弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教虚言なるべからず。仏説まことにおはしまさば、善導の御釈虚言したまふべからず。善導の御釈まことならば、法然の仰せそらごとならんや。法然の仰せまことならば、親鸞が申すむね、またもつてむなしかるべからず候ふか」と。これは弥陀の本願は釈尊から善導へ、そして善導から法然へ、さらには法然から親鸞へとリレーされてきたと述べています。弥陀の本願はこのように一人一人に個別に届けられるのであり、何か巨大な拡声器のようなもので一斉に送られてくるのではないということです。
 この文言で「弥陀の本願まことに〈おはしまさば)」と言われていることに注目したいと思います。この「おはしまさば」は、「おはします」の未然形に、接続助詞「ば」がついたかたちで、「もし~ならば」と仮定条件を表しています。「もし弥陀の本願がまことでしたら、釈尊の仰せも虚言ではないでしょう」と言っているのです。その後もみな同じで、もし釈尊の仰せがまことでしたら、善導の仰せも虚言ではなく、善導の仰せがまことでしたら、法然の仰せもそらごとではなく、法然の仰せがまことでしたら、わたし親鸞が言うことも間違いではありますまい、というのです。
 これは「もしもAがまことであるならば、Bもまことである」と言っているだけで、これだけではBがまことであることの証明にはなっていません。もしこの文が「弥陀の本願まことに〈おはしませば〉、…親鸞が申すむね、またもつてむなしかるべからず候ふか」となっていましたら、これは「Aがまことであるから、Bもまことである」ということで、これだけでBがまことであることの証明と言えます。しかしその場合、Aがまことであることが何の根拠もなく断言されています。つまりドグマ(独断)です。
 「弥陀の本願まことに〈おはしまさば〉、云々」という言い方が採用されているということは、弥陀の本願は連綿とリレーされてきて、わたし親鸞のところにまで届けられたと表明していると理解すべきでしょう。そして、すぐ前に述べましたように、本願がまことであることの証明は、親鸞にその本願が届いたこと、親鸞が(法然聖人の仰せを通して)本願に遇うことができたことを置いて、他にあるわけではありません。その証明はもちろん親鸞にしか当てはまりませんが、しかし親鸞としてはそれでもう十分であり、それ以上何も必要ではありません。

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