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仏法をばやぶるひとなし [『末燈鈔』を読む(その220)]

(7)仏法をばやぶるひとなし

 追伸で注目すべきなのは、「領家・地頭・名主のひがごとをすればとて、百姓をまどはすことはさふらはぬぞかし」と断言していることです。そしてこう言います、「仏法をばやぶるひとなし」と。このように信じているからこそ、「かのひと(念仏をとどめんとするひと)をにくまずして、念仏をひとびとまふして、たすけんとおもひあはせたまへとこそおぼえさふらへ」という余裕のあるスタンスが生まれてくるのでしょう。
 しかし、どうして「仏法をばやぶるひとなし」と言い切れるのでしょう。これについては前に考えたことがありますが、改めて思いを廻らしたいと思います。
 もし仏法が(本願が、と言った方がいいでしょう)、われらがそれを迎えに行かなければならないものでしたら、それを「やぶる」ことはいくらでもできるでしょう。われらが迎えに行くのを禁止すればいいのです。それを振り切ってなおも行こうとするような輩は牢屋にぶち込めばいい。しかし本願はそのようなものではありません、本願の方がわれらを迎えに来てくれるのです。われらから言いますと、気がついたときには、もうすでに迎えられているのです。
 これを誰が「やぶる」ことができるでしょう。
 本願を「やぶってやろう」としている人ですら、ふと気づいたら、すでに本願に迎えられているかもしれないのです。パウロを思い出します。『新約聖書』によりますと、彼は大工の子イエスをキリストと信じるなどというけしからん連中をとっつかまえようとダマスカスに向かう途中で、そのイエスにつかまえられている自分に気づいたのでした。「サウロよ、サウロよ、なぜあなたはわたしを迫害するのか」という声に迎えられたのです。これはもう如何ともすることができません。
 ふと気づかされることは、すてに「あとの祭り」で、どんな力のある人にもこれを「やぶる」ことはできません。


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