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同時的なつながり [『歎異抄』ふたたび(その60)]

(7)同時的なつながり

 同時ということに疑問が起こるかもしれません。「たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ」という親鸞のことばは、「いま」行信を獲られたのは、遠い「むかし(宿)」にその縁があったのであり、それを慶ぶべきだという意味ですから、ここには時間の経過があるのではないかと思います。やはり過去に何らかの原因があり、それが時を隔てていま行信を獲るという結果を生んだのではないか。とすれば縁起とは結局、普通の因果と同じではないかと思われるかもしれません。
 しかしそうではありません。親鸞が「遠く宿縁を慶べ」というのは、迂闊なことにこれまでまったく気がついていなかったが、ずっと昔から縁としての如来の本願力がはたらいていたのだ、そのことに「いま」気づいた、と言っているのです。そして如来の本願力に気づくことが行信を獲ることに他ならず、それは何と悦ばしいことではないかと言っているのです。ここから了解できますのは、縁というのは、それに気づいてはじめて存在するということです。気づかなければどこにも存在しない。そして縁としての本願力に気づくのと、行信を獲るのは同時だということです。
 縁とは「同時的なつながり」のことであることが明らかになったと思います。で、「一切の有情はみなもつて世々生々の父母・兄弟なり」とは、「一切の有情(これは人間だけではありません、生きとし生けるものすべてです)」はみな「父母・兄弟」として「同時的につながっている」ということです。すでに死んでしまったもの、いまともに生きているもの、そしてこれから生まれてくるであろういのちたちすべてとぼくは「同時的につながっている」のです。「いのちの系統樹」というのがあります。いのちの共通の幹からさまざまな生物種が複雑に枝分かれして巨大ないのちの樹になっている図ですが、これはすべてのいのちは「同時的につながっている」ことを視覚的に明らかにしてくれます。
 突拍子もないことと思われるかもしれませんが、数千万年前に絶滅した恐竜たちとぼくは「同時的につながっている」のです。

タグ:親鸞を読む
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