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願心の回向成就したまふところ [『教行信証』「信巻」を読む(その88)]

(5)願心の回向成就したまふところ


「信巻」のはじめからここまでの締めの文がきます。ここで真実の信心とは何かという問いに対する答えが一旦締めくくられます。


しかれば、もしは行、もしは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまふところにあらざることあることなし。因なくして他の因のあるにはあらざるなりと、しるべし(因がないわけでも、また他の因があるわけでもないとしらなければなりません)。


かえりみますとまず「信巻」の序において、「それおもんみれば、信楽を獲得することは、如来選択の願心より発起す。真心を開闡することは、大聖矜哀の善巧より顕彰せり」と言われ、そしてつづく総説において、「この心(真実の大信心)すなはちこれ念仏往生の願より出でたり」と述べられていました。要するに本願の信は本願より発起するということで、このことがそのあとにつづく多くの引用によって検証されてきたわけです。そしてここにきまして、信も行も「一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまふところにあらざることあることなし」と結論づけられることになります。このように一貫して、われらの信心はわれら「に」おこるが、われら「が」おこすのではなく、弥陀の清浄願心がおこしてくださるのであることが説かれているのです。


ところでこの文はもう少し先のところで引用される『論註』の次の一文が下敷きになっています、「この三種の荘厳成就(浄土とそこにおられる阿弥陀仏および菩薩衆の荘厳が成就されていること)はもと四十八願等の清浄の願心の荘厳したまふところなるによりて、因浄なるがゆゑに果浄なり、因なくして他の因あるにはあらざるなり」と。これは正信偈に「報土の因果誓願に顕す」と詠われていますが、この報土の因果を信心の因果として、それは「阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまふところ」であると述べているのです。そしてつづいて「因なくして他の因のあるにはあらざるなり」というまったく同じ表現がつかわれています。信心がおこるのに因がないわけではないし、弥陀の清浄願心以外の因があるわけでもないということです。まさしく弥陀の願心が回向されてわれらの信心が起こっているのだと言っているのです。



タグ:親鸞を読む
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