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こころに届く声 [正信偈と現代(その8)]

(8)こころに届く声

 何かの存在を証明するということは、その何かは客観的な存在であるということ、誰にとっても存在するということを意味します。キリスト教の神はこの世界を創った(造物主)と言うのですから、そう言う以上、それは誰にとっても存在しなければなりません。そんな神は存在しないと言い張る人には、いや、こうこうこういう理由で存在するのだ、きみはそれを知らないだけなのだ、と証明しなければなりません。キリスト教神学にはそのレーゾン・デートルがあるのです。
 さて仏はどうか。仏も事情は同じで、仏は一切衆生を救ってくださるというのだから、誰にとっても存在しなければならない。だから、仏なんてどこに、という人がいれば、その存在を証明しなければならない、のでしょうか。
 ここであらためて確認しなければならないのは、仏とは言いますが、さしあたってはっきりしているのは、仏なる「もの」がいるということではなく、「南無阿弥陀仏」という声が(耳にではなく、こころに)聞こえるということです。「おかえり」という声が届くということ。もしそれが耳に聞こえる声でしたら、ある人には存在し、ある人には存在しない、と言うわけにはいきません。誰にとっても存在するものですから、「ぼくには聞こえませんが」という人に対しては、「いや、こうこうこんなふうに(と計測器などの数値を示して)間違いなく声がしていますよ。聞こえないとすると、それはあなたの耳の問題です」と言わなければなりません。
 しかし「南無阿弥陀仏(おかえり)」はこころに届く声ですから、「ぼくには聞こえませんが」という人に、「いや、あなたにも届いていますよ」と言うわけにはいきません。「どうすれば聞こえるのですか」と尋ねられても、こうこうこうすればと答えるわけにもいきません。この声は聞こうとして聞こえるものではなく、気がついたときにはもうすでに聞こえているのですから。

タグ:親鸞を読む
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