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『教行信証』「信巻」を読む(その85) ブログトップ

この心すなはち他力なり [『教行信証』「信巻」を読む(その85)]

(2)この心すなはち他力なり


 『華厳経』と菩提心ときますと、おのずと明恵のことが連想されます。親鸞と同年の華厳宗の僧・明恵は法然の『選択集』を一読するや、ここでは菩提心が否定されているとして厳しく弾劾します。確かに『選択集』において法然は往生の行は「ただ念仏のみ」であり、菩提心などは不要であると説いています。たとえば第三の本願章においてこう言います、「かの諸仏の土のなかにおいて、あるいは布施をもつて往生の行となす土あり。…あるいは菩提心をもつて往生の行とする土あり。…(しかし第十八の念仏往生の願は)前の布施・持戒、乃至孝養父母等の諸行を選捨して、専称仏号を選取す」と。


明恵は『摧邪輪』を著し、仏教の基本である菩提心を否定する法然は仏教の怨敵であると攻撃しましたが、そのとき彼の頭にはここに引用されている『華厳経』の一節が浮んでいたのかもしれません。


さて親鸞はこの明恵の論難に対し、法然が否定したのは自力の菩提心であることを明らかにします。親鸞は法然の真意を汲み、他力回向の菩提心こそ真実の菩提心であり、それが往生の正因となるのだというのです。「信巻」のもう少し先になりますが、親鸞は菩提心についての一段でこう言います、「しかるに菩提心について二種あり。一つには竪(自力の意)、二つには横(他力の意)なり。…横超とは、これすなはち願力回向の信楽、これを願作仏心といふ。願作仏心すなはちこれ横の大菩提心なり」と。菩提心とは「ボーディ(菩提)・チッタ(心)」で、菩提すなわち仏の悟りをめざす心ですが、それには自らの力で起こす自力の菩提心と、如来から回向される他力の菩提心があり、他力の菩提心が真実の信心で、それが往生の正因となるということです。


親鸞は和讃でこう詠います、「信心すなはち一心なり 一心すなはち金剛心 金剛心は菩提心 この心すなはち他力なり」(『高僧和讃』天親讃)と。信心=一心(仏の心とわれらの心が一つ)=金剛心=菩提心で、みな如来から回向されたものということです。この引用文のすぐ前に、善導の『往生礼讃』から「それかの弥陀仏の名号を聞くこと得ることありて、歓喜して一心を至せば、みなまさにかしこに生ずることを得べし」という文が引かれていましたが、名号を聞くことにより賜った一心=菩提心により「かしこに生ずることを得」るのです。これさえ賜れば「一切の煩悩、諸魔怨敵、壊することあたはざるところ」です。



タグ:親鸞を読む
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