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『末燈鈔』を読む(その269) ブログトップ

第2通第3段 [『末燈鈔』を読む(その269)]

(7)第2通第3段

 第3段です。少々長いですが、一気に読んでしまいましょう。

 世間のことにも、不可思議のそらごと、まうすかぎりなきことどもを、まうしひろめてさふらへば、出世のみにあらず、世間のことにをきても、をそろしきまうしごとどもかずかぎりなくさふらふなり。なかにも、この法文の様きゝさふらふに、こゝろもをよばぬまうしごとにてさふらふ。つやつや親鸞が身には、きゝもせずならはぬことにてさふらふ。かへすがへすあさましふこゝろうく候。弥陀の本願をすてまいらせさふらふことに、人々のつきて、親鸞をもそらごとまうしたるものになしてさふらふ。こゝろうく、うたてきことにさふらふ。おほかたは、『唯信鈔』『自力他力の文』『後世ものがたりのきゝがき』『一念多念の証文』『唯信鈔の文意』『一念多念の文意』、これらを御覧じながら、慈信が法文によりて、おほくの念仏者達の、弥陀の本願をすてまいらせあふてさふらふらんこと、まうすばかりなくさふらへば、かやうの御ふみども、これよりのちにはおほせらるべからずさふらふ。
 また『真宗のきゝがき』、性信房のかかせたまひたるは、すこしもこれにまうしてさふらふ様にたがはずさふらへば、うれしふさふらふ。『真宗のきゝがき』一帖はこれにとゞめをきてさふらふ。
 また哀愍房とかやの、いまだみもせずさふらふ、またふみ一度もまいらせたることもなし、くによりもふみたびたることもなし。親鸞がふみえたるとまうしさふらふなるは、おそろしきことなり。
 この『唯信鈔』、かきたる様あさましう候へば、火にやきさふらふべし。かへすがへすこゝろうくさふらふ。
 このふみを人々にもみせさせたまふべし。あなかしこあなかしこ。
 五月廿九日                              親鸞
 性信御房 御返事

 なをなをよくよく念仏者達の信心は一定とさふらひしことは、みな御そらごとどもにてさふらひけり。これほどに第十八の本願をすてまいらせあふて候人々の御ことばをたのみまいらせて、としごろさふらひけるこそ、あさましうさふらふ。このふみをかくさるべきことならねば、よくよく人々にみせまうしたまふべし。

 (現代語訳)出世間のことだけでなく、世間のことにつきましても、考えられないような偽りや言い尽くせないようなことを言い広めているようで、恐ろしいことが数限りなくあります。とりわけ、慈信の教えの様子を聞きしますと、思いもよらないようなことです。この親鸞にとりまして、全く聞いたこともなく学んだこともありません。返す返す情けないことです。弥陀の本願を捨てた慈信に人々がついて、親鸞も偽りを言うものとされているのは、情けなく悲しいことです。大体、『唯信鈔』『自力他力事』『後世物語聞書』『一念多念分別事』『唯信鈔文意』『一念多念証文』のような書物を御覧になっていながら、多くの念仏者が慈信の教えによって弥陀の本願を捨てられているのは、もうことばもありません。これからはこれらの書物のことを言うべきではありません。
 またあなたが書かれた『真宗の聞書』は、わたしが言っていることと違っていませんので、嬉しく思います。『真宗の聞書』を一冊こちらの手元において置こうと思います。
 また哀愍房とか申すもののことですが、会ったこともなく、また手紙を出したことも、向こうからもらったこともありません。わたしから手紙をもらったと言っているそうですが、恐ろしいことです。
 この『唯信鈔』はひどい書き様ですから、火に焼いてしまいましょう。何とも悲しく思います。
この手紙を他の人々にもお見せください。謹言。

 それにしましても、念仏者たちの信心は定まったと言ってきたのは、みな間違いでした。これほど第十八願を捨ててしまった人々のことばを信用してきましたのは情けないことです。この手紙は隠さなければならないものではありませんので、よくよく皆さんにお見せになってください。


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