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釈迦のいう輪廻とは [『一念多念文意』を読む(その102)]

(10)釈迦のいう輪廻とは

 しかし『スッタニパータ』を読む限り、そのような意味での輪廻については語られません。輪廻は仏教より前からインド社会の中で育まれた思想ですから、仏教にも当然その影を落としていますが、ゴータマの語る輪廻は、ぼくらがそのことばから受けとるイメージとはかなり異なるものです。
 たとえばこんなふうです。「この状態から他の状態へと、くり返し生死輪廻に赴く人々は、この帰趣は無明にのみ存する」。「この無明とは大いなる迷いであり、それによって永いあいだこのように輪廻してきた。しかし明知に達した生けるものどもは、再び迷いの生存に戻ることがない」。
 これをみますと、輪廻とは「迷いの生存」のことで、そこに善悪の因果応報の要素を読み取ることはできません。
 ゴータマにとっては輪廻そのものから脱却することが問題であって、無明を脱して明知に達することにより、今生において「迷いの生存」から解脱することができると言うのです。殺生をしたり、人のものを盗んだり、ウソをついたりしてはいけませんと繰り返し言いますが、そんなことをすると次の世で地獄に堕ちますよなどということは一切言いません。そのような行ないは人を安らぎ(ニルヴァーナ)から遠ざけると説くのがゴータマです。
 さて浄土の教えですが、「地獄と極楽」などと言いますから、輪廻の思想と深く結びついているような印象をもたれるかもしれません。しかし、そもそも「地獄と極楽」は並列できるものではありません。そんなふうに思うのは、おそらくキリスト教やイスラム教の「天国と地獄」とごっちゃになっているからで、仏教の「地獄と極楽」と一神教の「天国と地獄」とはまったく異なります。地獄は六道の一つで(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天が六道)、極楽浄土への往生はその六道そのものから超越することです。

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