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「『正信偈』ふたたび」その26 ブログトップ

偈文2 [「『正信偈』ふたたび」その26]

(6)偈文2

さて「五濁悪時の群生海、如来如実の言を信ずべし」につづいて、次の四句でその信が生まれたとき何が起こるかが述べられます。

能発一念喜愛心 不断煩悩得涅槃

凡聖逆謗斉回入 如衆水入海一味

よく一念喜愛の心を発すれば、煩悩を断ぜずして涅槃を得るなり。

凡聖逆謗(ぼんしょうぎゃくほう)ひとしく回入(えにゅう)すれば、衆水、海にいりて一味なるがごとし。

本願を聞かせていただき、喜びがこころに満ち溢れますと、煩悩にまみれたまま涅槃の境地にはいることができます。

凡夫も聖人も、五逆罪を犯したものや仏法を謗るものも、みな本願の海に入れば、さまざまな河の水が海に入ると同じ味になるように、何の違いもありません。

この四句はすべて曇鸞の『論註』がベースとなっています。はじめの二句のもとは「凡夫人の煩悩成就せるありて、またかの浄土に生ずることをうれば、三界の繋業(けごう)畢竟じて牽かず、すなはちこれ、煩悩を断ぜずして涅槃の分をう(不断煩悩得涅槃分)」という一文です。「喜愛心」は「信心」のことで、「喜愛心を発する」とは「ほとけの願い(本願)」に遇うということです。「ほとけのいのち」から「若不生者、不取正覚」と願われていることに気づいたときということですが、曇鸞の文ではそれが「かの浄土に生ずることをうれば」となっています。「ほとけの願い」に遇うことが、取りも直さず「かの浄土に生ずる」ことです。

さてそのとき、いったい何が起こるのかと言いますと、煩悩をもったままで涅槃をえると言います。これは大乗の奥義である「煩悩即涅槃」を言い替えたものです。「即」とは「そのままで」ということで、煩悩はそのままで涅槃であるということです。常識では、煩悩は煩悩でなくなってはじめて涅槃ですが、そうではなく、煩悩は煩悩であるままで涅槃であるというのです。龍樹ならこれを「不一不異」と言うでしょう、煩悩は涅槃と「一にあらず」だが、しかしまた「異にあらず」であると。煩悩は涅槃と同一ではありません。もし同一でしたら、われら煩悩具足の凡夫はすでに仏であるということになりますから。しかし煩悩は涅槃と別異でもありません。もうすでに「ほとけの願い」に遇い、「そのまま帰っておいで」という「こえ」が聞こえたのですから。それはもう涅槃をえたのにひとしいではありませんか。


タグ:親鸞を読む
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